51 書記の継体王の死についての謎かけの文
或本云 天皇廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者取百済本紀為文 其文云 太歳辛亥三月 軍進至于安羅営乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨 由此而 辛亥之歳當廿五年矣 後勘校者知之也
これが日本書紀の原文である。微妙な言い回しを理解するには原文解釈が一番良いと思い、ここに提出してみた。意味はこうである。
ある本に云う 天皇二十八年の歳甲寅の時崩じた それであるのにここに二十五年の歳辛亥に崩じたと云うのは百済本紀の文によっている。その文に云うには「太歳辛亥三月、百済軍は進み于安羅に到り乞乇城に陣をとった。 この月、高句麗の王、安が殺された。又聞くところによると日本天皇および太子、皇子ともに崩くなった」ということだ。 天皇の崩じたと云う辛亥の年は継体二十五年にあたるのだ。このことは後に良く考えた者がこの真実を知る事ができるであろう。
ずいぶんと謎かけの様な書き方をしているなあ!と筆者は思う。わざわざ百済本紀をひっぱり出して、自分の国の王の亡くなった年を調べている。それによれば継体王が亡くなったのは継体紀二十五年だと主張する。名を隠した、日本の某書によれば(それが、正確な記述の書か不正確な記述の書であるか不明だが)天皇は二十八年に崩じたと書いてあるのにである。たかだか二百年前の始祖のような王の亡くなった年を編者が知らないわけはない。この百済の文を引きずり出して来たのにはある意図が隠されている。
それは天皇一族の死という出来事をあからさまにするためなのだ。だからさいごにわざわざ謎かけをする。【よく考えてごらん、本当の事がわかるから】と。
そしてこの記事の、日本天皇一族の死の年こそは、まさに磐井の反乱の年(磐井の反乱の527年は継体廿年にあたるが、書記が書いている事なのでもともとあやふやである)なのである。これは何を意味するか、磐井が天皇であったと云う事である。なぜならば一族が亡くなったのは磐井の王家であるからだ。
もっと云えば、倭国の天皇磐井とその一族がことごとく殺害された年なのである。