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50 継体王の近畿制覇

 百済においては、銅鏡は、大きな歳事的意味を持たない、単なる日用品の鏡にすぎなかったという。太陽信仰の一種である神道においてはキラキラと太陽の日射しを受けて輝く鏡は神聖なものであったが、朝鮮半島においては、それほどではないと言うことだった。このことから銅鏡は多数は作られなかった。和国において銅鏡が多数製造されたようだ。文字が書かれてない銅鏡ならば同じ鋳型によって作られた同型鏡が多量に出土している。鏡にはもう一つ踏み返し鏡と呼ばれているものがある。鏡を粘土に押しつけ文様を取り鋳型を作る方法である。隅田神宮人物画像鏡を大和王朝が作ろうとすれば簡単な事だったと思われる。

 銅鏡が本物であるとすると、大和王家にとっては、確固たる輝かしい王朝の歴史を証明するものである。百済王朝とのこの親密な関係は大和との関係であり、けっして倭国との関係ではないことを証明することになる。しかし日本書紀と歴史的遺産(人物画像鏡は国宝指定である)のあまりにもぴったりした整合は、ある疑いを想起させずにはいかない。【これは武烈王の段の記事にあわせて偽造された銅鏡だ】という思いだ。膨大な捏造された日本書紀を作成した情熱は、証拠作りにも向かったに違いない。

 この証拠の前には、倭国は九州を中心とした王国だという説はガラガラと音を立てて崩れて行く。筆者はその衝撃にしばらく呆然と立ちつくすのみである。しかし、ここで負けてはいけない、気を取り直して前に進むのみだ。


 継体王は状況から言えば、百済どころではないはずだ。近畿を中心とした争乱は果てしなく続いている。書紀は長らく続いて来た王朝の血が途絶えたと叙述しているが、真実は連合王国の中心となる王国が衰微して連合王国のバランスが崩れ群勇割拠状態と成り、戦国時代となったのだ。争乱は少なくとも西暦500年から二十年は続いたのである。オウドノキミのいわゆる「みやこ」が定まらないのは、その「みやこ」が、戦略基地にすぎないからである。いつまでも大和に入れないのは、大和には「大和王家」がまだ存在しているからなのだ!


 又聞く、日本の天皇及び大子・皇子ともに崩薨かむさりましぬといえり。


                              日本書紀 継体二十五年 載


 継体王が亡くなったとき太子・皇子がともに亡くなったなどという記事はどこにもない。上記の文書のみが、そのことを伝えているだけだ。525年頃はちょうど磐井の反乱がある時だ。ここの所の書記の文書はなんだか支離滅裂の感がある。あえてそうすることによって書記の編者は読者に以下の事をそっと暗示しているかのようである。


 又聞く、日本の天皇(磐井)と太子・皇子が(大和の侵略によって)ともに亡くなられたと云う

 


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