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5 磐井以前の歴史

 武王は言う。「私ども倭国は宋の国と遠く隔たっておりますが、海の外にも領土を伸ばしております。昔より祖先は甲冑をつけて山川をかけ渡って寸時の閑もありませんでした。東は毛人五十五国を平らげ西の蛮族六十六国を征服し北の海を渡って韓国からのくに九十五国を平らげました。王道は安泰で開拓を行い上質の田畑を五百里四方を越えて増やしました。倭の歴代の王は毎年絶えることなく宋国への訪朝をかかしませんでした。皇帝の臣として私は愚なものでありますが、かたじけなくも皇統を継ぐことができたので全力を持って宋に渡るべく臣たちをして星と太陽を海路の目印として進ませました。ところが不道徳な高句麗は百済を飲み込む為に国境から入り込み策動を繰り返しており、海にも進出しているために倭国の朝宮がとどこおる原因となっております。私の父の済はこれに怒り、臣下百万がこれに呼応し出兵しようとしましたが、そのとき突然、済王は父、兄を亡くしこの計画は行われずに終わってしまいました。今になってその計を実行できるようになりました。なにとぞ皇帝の庇護のもと高句麗との戦を援助していただければ一層皇帝のお力となれます。」

 西暦463年

倭国に毎年来ていた新羅の使者が七年絶えている。倭国は吉備弟君きびのおとぎみ吉備海辺赤尾きびあまべあかおを新羅に派遣した。先に派遣されていた吉備田狭きびたさは弟君を誘って反乱を起こしたが倭によって討ち取られた。

 472年 倭国は新羅を討伐するために出兵する。新羅は防衛のため明活城を築いた。倭国はそのため勝利することができなかった。

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