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49 武寧王の陵墓発見! と画像鏡

 1971年 韓国忠清南道(ちゅんちょんなむど)公州こうじゅん市(旧、百済王都、熊津。475年現在のソウルにあった都、漢城からこの広州の熊津に移った。ソウル南方150㎞に位置する)の宗山里古墳群から墓誌が出土した。墓誌に次の様に記されていた。「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二才発卯年(523年)五月(中略)崩」

 木の棺に王は納められていたが、学者の検査で、この棺の材は日本にしか自生しない高野槇こうやまきであることが判明した。この木は真言宗の総本山である高野山(和歌山県)に多く自生していることからこの名がついたという。分布は九州から福島県に及んでいる。水の腐敗に強く、湯船、橋の材として用いられる事が多い。大和における前方後円墳に納められた棺もこの高野槇であることが多いという。

 

 韓国の半島の西側の百済まで遙々《はるばる》棺材は運ばれたわけである。百済王家と日本の深い関係が推測できる。ここで改めて強調することは、この百済と深い関係にあったのは、筆者が42,44章ですでに書いたが、近畿圏、本州の王家「大和」ではなく磐井王の倭国であったことだ。


 高野槇の高野山がある和歌山県は、さらに不思議な因縁がある。紀伊半島の西岸に面した和歌山県隅田(すだ)八幡神社所蔵(東京国立博物館寄託中)の人物画象鏡(19.9㎝の銅鏡の裏に中国王朝の九つの逸話の人物を描き、鏡の円周に次の文書が書かれている。


 癸未みずのとみの年(503年)八月十日男弟王が意柴沙の宮にいます時、斯麻が長寿を願って河内直と中国人の今州利を遣わし、白銅二百(さお)を用いてこの鏡を作る。


 これは、原文を筆者が訳したものだ。解釈に諸説いろいろあるのだが、日本書記の継体王の段の記事と良くあっていると思うのが筆者の立場である。(この鏡は2010年12月27日現在東京国立博物館常設展で公開されている。お正月も公開が続くようであるから、正月の楽しみに行かれてはどうだろうか)

 この鏡の元となる絵柄の鏡は大和王朝がだいぶ配った様だ。(文字が入らない鏡は絵柄が逆である。推測するにこの流布する鏡で鋳型を取り文字を書いたか)日本書紀と同じで、大和王朝の権威を高めるために、大和王朝が偽造した疑いがある。この鏡が本物なら百済と密接な関係にあったのは継体王であった事を示している。筆者の大前提、倭国磐井王と百済王の密接な関係が崩れるから、この説は採らない。この鏡の怪しい所は503年に意紫沙加宮(大和、忍坂宮)に継体王がいると述べている所だ、継体王は、この年以降もまだまだ大和に住居を構える事はできなかったはずである。日本書紀は継体王の都が定まらず転々としたと書いているが、この鏡に、早々と奈良に都が定まったように書かれているのは、模造時の年代が書記よりも古く、継体王の彷徨(?)を隠したいという意図があったかに見える。




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