48 新王朝としての天皇家
507年に継体王は即位したと書記にはあるが、本当に即位だったのかどうかは判らない。前王の武烈が亡くなったのが506年だったから即位したのは507年にしておこうという事なのかもしれない。
筆者が推測するに、武烈までは、磐井と濃い血筋にある「大和の国」が近畿圏を支配していたようである。しかし武烈帝が崩御したという506年ごろからどうも近畿圏は大争乱に入ったようだ。
書記によれば継体王は大和に都を定めるまでに自称「みやこ」を転々としている。
507年二月 樟葉の宮(大阪府、牧方市)
511年十月 筒城宮(京都府京田辺市)
518年三月 弟国宮(京都府長岡京市)
526年九月 磐余玉穂宮(奈良県桜井市)
継体王が亡くなったのは古事記によれば527年 日本書紀によれば531年である。史書が作られた経緯から考えるに古事記の方が正しいようだ。・・・とすれば継体王は大争乱に生き残り大和に都をさだめてすぐに亡くなったということを表している。
やっと、大和を平定したと思ったら今度は筑紫との戦いに入っている。
さて、少し近畿の情勢について語りすぎたようだ。上記の様に、かの大和の前方後円墳を作り上げた王族と縁もゆかりもない男が、近畿を支配したと考えてよいと思う。まして日本書紀が語るような、武烈から継体への王位をゆずるエピソードはまるっきりフィクションだと言い切れよう。
磐井にしてみれば、激しい内乱の末、親戚の王家が滅亡し、新たな新興のオオドと言う者に倭国近畿部が乗っ取られたように思えたに違いない。