表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/226

48 新王朝としての天皇家

 507年に継体王は即位したと書記にはあるが、本当に即位だったのかどうかは判らない。前王の武烈が亡くなったのが506年だったから即位したのは507年にしておこうという事なのかもしれない。

 筆者が推測するに、武烈までは、磐井と濃い血筋にある「大和の国」が近畿圏を支配していたようである。しかし武烈帝が崩御したという506年ごろからどうも近畿圏は大争乱に入ったようだ。


 書記によれば継体王は大和に都を定めるまでに自称「みやこ」を転々としている。

 507年二月 樟葉くすばの宮(大阪府、牧方市)

 511年十月 筒城宮つつきのみや(京都府京田辺市)

 518年三月 弟国宮おとくにのみや(京都府長岡京市)

 526年九月 磐余玉穂宮いわれのたまほのみや(奈良県桜井市)


 継体王が亡くなったのは古事記によれば527年 日本書紀によれば531年である。史書が作られた経緯から考えるに古事記の方が正しいようだ。・・・とすれば継体王は大争乱に生き残り大和に都をさだめてすぐに亡くなったということを表している。

 やっと、大和を平定したと思ったら今度は筑紫との戦いに入っている。

 

 さて、少し近畿の情勢について語りすぎたようだ。上記の様に、かの大和の前方後円墳を作り上げた王族と縁もゆかりもない男が、近畿を支配したと考えてよいと思う。まして日本書紀が語るような、武烈から継体への王位をゆずるエピソードはまるっきりフィクションだと言い切れよう。


 磐井にしてみれば、激しい内乱の末、親戚の王家が滅亡し、新たな新興のオオドと言う者に倭国近畿部が乗っ取られたように思えたに違いない。



 

  


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ