表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/226

44 501年 倭国生まれの百済王即位

 百済の武寧王は筑紫で生まれた王であると、日本書紀は501年の記に失われた百済の史書、「百済新撰」から引いてきて書いている。(読者の方には申し訳ないが、42章に加筆したので読んでいただきたい)このことは三国史記には何も触れられていない。やはり三国史記は「倭」についての記事を避けているように見える。

 武寧王は、書紀で読みとれる限りでは、501年に百済の王となるのだが、その時には武寧王は成人していたようである。産まれたのが九州であったと云うからには母も夫と一緒にいたと云うことを示している。武寧王の母が百済の人なのかそれとも倭人であったかは読み取れない。考えるに、父である王子が倭に来ているという事はおそらく父は人質として来ているのだと思われるから母は倭人であったかもしれない。倭国王は、この時、磐井の父だったであろう。若い磐井は伽耶に倭国全権大使のような立場で館を構えていたと推測できる

 497年~500年 勃興新羅は高句麗と倭、伽耶から絶え間ない攻撃を受けていたようである。

 501年 百済に倭国生まれ(おそらく倭国育ちだろう、百済新撰から日本書紀が引いてきた文章からは、そのことは判別できない)の王、武寧王が即位した。王の母が、倭国王女であることも考えられる。

 ここにおいて高句麗、新羅にとって百済は倭国そのものではあるまいか。武寧王は磐井の姉か妹の子供でありうる。磐井の甥が武寧王という可能性は非常に高い。

 その武寧王が百済に戻ってきた(おそらくそれまで倭国に人質に取られていただろう。人質というと捕らわれ人のようであるが、丁重な待遇が保証されているのが当時の常識である。

 磐井は兄弟のように親しい武寧王が百済に戻って来たので、その喜びは非常に大きかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ