41 三国動乱と倭国
以上の三国史紀の記すところの中で非常に注目すべきは【497年の倭軍による新羅の城への攻撃と500年の倭軍による新羅の城の落城】である。三国史記の記事はおおむね高句麗、百済、新羅の事に終始するが、筆者は三国史記を編集するに当たって元となった古文書には、倭国並びにその同盟軍であった伽椰諸国の動きも書かれていただろうと思う。新羅の後裔である事を認じる高麗国(朝鮮半島の統一国、918年~1392年)は、官撰歴史書である三国史記、作成の時、異民族である倭の自国内における跳梁跋扈を削除した事であろう。
三国史記には高句麗、百済、新羅の三つ巴の戦いが描かれているが、本来は高句麗、百済、新羅、倭国+伽椰の四つ巴の戦いであったと推測される。三国史記はこの点でいえば、朝鮮半島の当時の状況を描ききっていないと言える。
倭が新羅の辺境に進入する497年の一年前に伽椰が新羅に、尾の長い優美な白い雉を貢ぐ記事がある。おそらく新羅の伽椰に対する武圧が、貢ぎの原因だろう。この日頃の新羅の伽椰に対する威嚇が倭の行動を引き起こしたと推察できまいか。
497年 磐井は倭軍の大将として、筑紫から呼び寄せた軍船とともに新羅国境を襲う指揮を取った。
折しも高句麗は中国「魏」への毎年の朝貢を下支えとして、ひんぱんに百済に兵を侵攻させ続けていた。百済の窮乏はきわまっているようだ。新羅はようやく伽椰の一国から大きくなって、国名を「新羅」と確定し、国内の土地制度を整えたようで、本来は倭の属領であったような地域を倭から奪って、倭国と姻戚である伽椰の領地をも奪い取ろうとしており、気を許せない。倭国の例を見ない大軍の出兵はその牽制なのだ。新羅は500年の倭による自国の城の落城をきっかけとして高句麗への接近を計ったようだ。
しかし今(512年)高句麗はかってない戦力を百済一国に投入し始めた。百済はこのところの凶作で息も絶え絶えなのに、高句麗との絶え間ない戦いにさらに消耗している。立国まもない新羅は高句麗懐柔に忙殺され伽椰の地を狙うなどの余裕はないようだ。かっては敵同士であった、百済と新羅は裏で手を結び、伽椰と倭軍の力をも借りようとしている。高句麗を北方で百済と新羅が妨げていて、伽椰を襲おうとしないから、今は伽椰にはかえって平穏な日々といえた。
伽椰諸国は安羅、加羅、卒麻、散半奚、多羅、斯二岐、子他、久嗟、で構成する連合諸国だ。これに倭国が相談役のような立場で駐留している。