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40 西暦503年~512年、高句麗、百済、新羅の状況

 503年 十月 群臣が王に言った「始祖が国を建ててからまだ名を定めないが新羅という国名がふさわしいかと思います。又、昔から国を治める者を帝とか王と呼んでおりますが、我が国は、まだ正しい称号を定めておりませんので、今から群臣は新羅王とお呼び申し上げようと思います」 王は、これに従った。(新羅本紀) 九月 靺鞨まっかつ(おそらく、高句麗によって動かされている族、筆者)が高木城に侵攻して来たので、王は兵五千を出して撃退させた。(百済本紀)

 504年 九月 役夫を徴用して十二城を築いた。(新羅本紀)

 505年 二月 王は国内の州、郡、県を定めた。(新羅本紀)

 506年 春 疫病が大流行し、三月から五月まで雨が降らない。川や地が乾き、民が餓えたので倉を開いて穀物を配って救済した。 七月 靺鞨が攻めてきて高木城を破り、六百余名を殺したり捕虜にした。(百済本紀) 春から夏にかけて日照りが続いて、民が餓えたので、王は倉庫をあけて民に施しものをて救った。(新羅本紀)

 507年 五月 高木城の南に二つの柵を立てるとともに長嶺城を築いて靺鞨に備えた。十月 高句麗の将軍 高老が靺鞨と共謀して漢城を攻めるために横岳の下に駐屯したので、兵を出して撃退した。(百済本紀)

 512年 九月 高句麗が加弗城を攻め取ったあと、その兵で丸山城を破った。高句麗の殺戮と略奪がひどかったので、王は勇敢な兵、三千を率いて韋川いがわの北で戦った。高句麗軍は騎兵によって破られた。(百済本紀)


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