39 西暦496年頃からの高句麗、百済、新羅の状況と倭の侵略
496年 七月兵を出して新羅の牛山城(青陽)を攻撃したが、新羅軍は泥河(江稜)付近に出撃してきたので我が軍は敗れて帰った。(高句麗本紀) 伽耶国が白い雉を贈ってきた。尾の長さが五尺(1.5㍍)あった。七月 高句麗が牛山城に攻めてきたので、将軍の実竹が出撃して泥河でこれを破った。(新羅本紀)
497年 四月【倭人が辺境を侵した】七月 日照りが続き蝗が発生した。八月 高句麗が新羅の牛山城を落とした。(新羅本紀) 八月 兵を出して新羅の牛山城を攻め取った。(高句麗本紀)
六月 大雨が降って民家が壊され流された。(百済 本紀)
498年 八月 耽羅(済州島)が年貢を納めないので、王も同行して、これを征伐しようとしたところ、耽羅王はこれを聞いて使者を寄こし謝罪した。百済王は征伐を中止した。(百済本紀)
499年 夏 非常な日照りで民が餓え、互いに食い合うほどであった。盗賊が各地に起きたので、群臣達は国庫を開いて民を救うことを請うたが、王はこれを拒否した。漢山の住民達二千余名が高句麗に逃げた。十月疫病が大いに流行った。(百済本紀) 百済の民が餓えて二千名が投降して来た。(高句麗本紀)
500年 三月 【倭人が長峯城を攻め落とした】(新羅本紀) 春 宮城の東に臨流閣(おそらく渓流に望んだ風情ある館であったのであろう。筆者)を建てたが、高さが五丈(丈は身のたけのこと。古来180㌢。つまり五丈は9メーター)もあった。又、池を掘り、珍奇な鳥を集めた。臣が上書して諫めたが返事がなかった。五月 日照りが続いたが王は左右の群臣達と臨流閣で宴会を設けて一晩中歓楽を極めた。(ここまで王の悪口を書くのは、三国史記の編集者が新羅よりであるからであろうか?普通正史には王の悪口は書かないものだ。筆者)(百済本紀)
501年 王の横暴の故に殺害されて、武寧王が立った。前王を殺害した将軍を攻めて殺した。十一月 兵五千を達卒の優永にひきいらせて高句麗の水谷城を撃った。(百済本紀)
502年 十一月 百済が国境を侵した。(高句麗本紀)
503年 十一月、百済の達卒、優永が兵五千を率いて水谷城を攻めた。(この記事は前記の百済本紀501年十一月と同じ出来事を書いていると推測される。どちらかが年表記に間違いがあるのだろう。筆者)(高句麗本紀)