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38 西暦494年頃からの高句麗、百済、新羅の状況

 読書を終えて、御所の庭に立てば、まだ朝の余韻が残っている。時は春。梅が先日から花を開き始めた。まだ開かぬ花芽がまるで、桃色の実のように木に鈴なりだ。その梅の香りが広大な庭に満ちている。 磐井は、今28才だ。父王が五年前に亡くなり、磐井が王位に就いた。王位に就く寸前に、父王の前代王(父王の兄である)の王子による磐井暗殺計画が発覚し、小戦乱があった。この戦いに磐井は勝利した。

 父の前代の王が亡くなった時、その王子はまだ五才に過ぎなかった。父は王が大きくなられたら王位を

譲るとの約束で、王位を受け継いだ。それから十年、磐井の父王は48才で亡くなってしまった。二代前の王の王子の姻戚達は十五才になった王子に王位を返せと迫ったが、磐井の即位が決まっている事を知ると反乱を起こしたのだ。

 しかし、磐井が王になった頃から、天候不順が相次いだ。加えて高句麗の百済に対する侵略はますます激しくなって、倭国の経営は一段と厳しさが増した。

 すでに書いたが、もう一度、磐井の世界を描くために詳しく、磐井の生きた時代の「世界情勢」を記載書も確認しながら見ていきたい。同じ出来事を三国それぞれが、様々に描いているのが面白く、その時代の香りが伝わってくると思う。


 494年 二月 扶余(朝鮮半島付け根部の大河、松花江流域の扶余国)王および妻子が国を挙げて投降してきた。春先ひどい日照りがあった。七月、我が高句麗軍は新羅と薩水の原(錦江上流清州)で戦った。新羅は破れて犬牙条にこもった。百済が兵三千を派遣して助けたので、我が軍は引き上げた。(高句麗本紀)ー 高句麗と新羅は薩水で戦った。新羅は勝てないで犬牙城にこもった。我が百済は兵三千を送って高句麗の包囲を解いた。(百済本紀)ー 四月洪水があった。七月 将軍実竹などが高句麗軍と薩水

の原(錦江上流の清州)で戦ったが勝てずに犬牙城(聞慶)に退いて守った。高句麗兵が追いかけてきて城を包囲した。百済王牟大むだいが兵三千を派遣して救援したので、高句麗兵は包囲を解いて帰った。(新羅本紀)

 495年 八月 我が兵を遣わして百済の雉壤城きじょうじょうを包囲すると百済は新羅に援軍を請うた。新羅王は将軍の徳智に命じて兵を率いらせ、救援させたので我が軍は退いて帰った。(高句麗本紀) 八月 高句麗が侵攻してきて雉壌城を包囲した。わが王は使者を新羅に派遣して救援を請うた。新羅の王が将軍徳智に命じて兵をひきいさせて、これを救ったので高句麗兵は退いて帰った。(百済本紀) 八月 高句麗が百済の雉壌を包囲した。百済が我が新羅に救援を請うたので、王は将軍の徳智に命じて兵を率いて救援させた。高句麗兵が潰走したので、百済王は使者を使わして謝した。(新羅本紀)

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