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34 削除された倭国

 さて、三国史記で一番美化されている新羅は高句麗広開土王の時(在位391年ー412年)、どのように書かれているのだろうか。新羅本紀(これは倭伝として記した部分である)を開いてみよう。

 393年 五月 倭人が来て金城(新羅王国の都の城)を包囲して五日も解かなかった。将兵、兵は皆、出て戦うことを願ったが、王は「いま倭は船を離れて陸地に深く入って決死の覚悟でいるから、その戦意は鋭いものがある。倭はすぐに戦って船に戻りたいのであるから、城から出てはならない」と言って

城門を閉じて堅く守った。倭は新羅を破ることができず退却しはじめた。その時をとらえて、新羅王は勇猛な騎兵200人を先導してその進路を遮断し、歩兵1000人を後ろから攻めさせ独山で破り、ほとんど全てを殺害、捕虜にした。

 402年 三月 新羅は倭国と国交を通じて奈勿王なもちおうの子、未斯欣みしきんを人質として渡した。403年 七月百済が辺境を侵した。 405年 倭兵が明活城を攻めてきて落とせずに独山の南あたりを帰るところを王が率いる騎兵で襲って三百名を惨殺した。 407年 三月 倭人が東の海岸を襲った。 六月今度は南の国境を襲い、百名を略奪した。408年 二月、倭人が対馬島に軍営を設けて、兵器と軍食糧を貯蔵して、新羅を襲撃しようと謀っていると王は聞き、「倭が攻めて来る前に海に出、今のうちに精兵を選んで打ち破るべきだ」と言った。軍首官僚の未斯品みしひんは答えて言った。

「臣が聞いておりますことには、倭兵は兇器のように荒々しく、危険な戦闘となりましょう。まして私達が不得意な広い海を渡るのですから倭人を征伐できなかった時には戻るに戻れず全滅となるでしょう。ですから国内の山により要塞を設置すれば倭の侵略があるときはこれを防ぎ、撤退すれば襲う事ができます。これが上策だと考えます」王はこれを聞き入れた。

 

 この記事によると、西暦393年の戦いの後、結局新羅は倭に侵略され、王子を人質として倭に差し出したようである。その後一応、平安が戻ったようであるが、新羅は高句麗と共同軍を組み、又、倭とその連盟である百済と戦闘が再開されたようである。高句麗は百済を攻め、新羅は倭と戦ったということである。しかし、ここで筆者は、はてなと首を傾げるのだ。

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