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33 真っ赤な嘘の三国史記

 韓国史の改竄かいざんは特に新羅本記でひどい。西暦400年の頃は、新羅はやっと伽耶諸国から抜け出たような小国だったと推測できる。高句麗が建てた「広開土王碑」(西暦414年建立)の碑文には「百済、□□、新羅・・・云々」という節があるが、普通に考えるに、これは大きい国の順番であろうから、□□つまり連合小国の伽耶又は念頭に浮かばない××国よりも小さく、恐らく新羅は建国したばかりの小国であったと考えられる。それが新羅本紀に依れば紀元前からあった事になっている!まあそれは良いとしても、次記の事は驚くべき事である。筆者の愚作23章には広開土王の碑文が載っている、それをまず読んで頂きたい。そして以下の高句麗本紀の西暦400年の頃の記事に眼を通して頂きたいと思う。


 高句麗本紀記事 西暦390年 九月に百済が将を派遣して高句麗の都雄城を攻め破り、男女二百名を捕虜にして帰った。 392年 春 高句麗の使臣を新羅に派遣して修好した。新羅王は甥の実聖を人質として高句麗によこした。高句麗王が亡くなったので、広開土王が即位した。七月 百済を征伐して十の城を落とした。九月 契丹を北伐して、男女五百名を捕虜とした。また敵に降伏した高句麗の民一万戸をさとして帰順(心を改め服従すること)させた。 10月 百済の関弥城を攻め落とした。その城は周囲が絶壁であり、海水が周りをめぐっていたが、王は兵を七手にわけ二十日間攻撃して陥落させた。 393年 八月 百済が南辺(百済と高句麗の国境)を侵したので、将に命じてこれを防がせた。394年 七月 百済が攻めてきたので、高句麗王は精騎五千を率いて逆襲し破った。敗敵は夜陰に乗じて逃亡した。八月 国南地方(百済と高句麗の国境)に七つの城を築いて新羅の侵攻に備えた。395年 8月 高句麗王は大同江の上流で戦って大破させ八千余名を捕虜にした。(中略)413年広開土王が亡くなった。 


 どうだろうか。碑文の内容とひどく違うようには感じるだろうと思う。碑文と史紀どちらが正しいのか。筆者は」おそらく碑文が正しいのだろうと思う。とすれば高句麗本紀は嘘を書いていることになる。

 百済本紀は当然のことながら高句麗との攻防を書いているが、この間、倭が登場するのは 403年 二月倭国の使者が来たので、王は使者を慰労した と言う記事においてのみである。三国史記は1200年頃(日本で言えば鎌倉時代初期)西暦400年から800年も経って国威を示すために、時の「高麗国」に依って編まれた。したがってその編集方針には国家の意思が隅々まで反映していると考えられる。日本書紀と同じように、それ以前の史書、記録があったことが知られているが、書籍は残されていない。【焚書】があったのだと推測できる。「三国史紀」は、日本書紀同様、史実を伝えていないと言うことではないだろうか。特に【倭国の存在を抹殺している】と言うことは大書して強調したい。

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