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30 三国史紀 本編

 475年 正月 新羅王は明活城(慶州)に移った。(新羅本紀)

 472年~491年 高句麗は使者をに毎年二回から三回遣わす(高句麗本紀)

 477年 倭人が大挙して新羅の五道に進入したが勝つことはできなかった。(新羅本紀)

 478年 八月 百済の兵官である解仇かいきゅうが政権をほしいままにし、法を乱し、

王を亡き者にしようと企んだ。九月に王が狩猟に出かけ、野営した時、盗賊に王を殺させた。

三斤王は13才で王位を継いだ。(解仇が王を殺したことが不明だったのだろう)王は

まだ幼なかったたので軍事政治の一切を解仇に任せた。解仇は徒党を集め大豆城に依って叛い

たので王は軍官の真男に命じて兵二千をもって撃たせたが勝てなかった。それで真老に命じて精兵

500人とともに出撃させ解仇を破った。謀反を補佐した燕信が高句麗に逃げたので妻子を捕らえ

て熊津の市場で斬った。(百済本紀)

 481年 三月 新羅北辺を高句麗が靺鞨まっかつと共に襲い、狐鳴城など七つの城をとった

上、進撃して来るので新羅軍は百済、加耶の援兵(援軍の兵)とともに各道に分散して防戦し敗

退させた後これを追って千余名を斬殺した。

 484年 七月、新羅の北辺を高句麗が襲った。新羅と百済が連合して母山城の下で高句麗を大破

した。(新羅本紀)

 485年 五月 百済は使者を新羅に遣わして和を結んだ(百済本紀)

 486年 四月、倭人が新羅の辺境を侵した。七月、狼山の南で大閲兵式を挙行した。(新羅本紀)

十月 百済は宮城の南で大閲兵式を行った。

 488年 魏の国が兵を派遣して百済を攻めたが百済軍に負けた。(百済本紀)

 493年 三月 百済王は使者を新羅に遣わして結婚を請うた。新羅王は重臣の娘を嫁がせてきた。

     (百済本紀)

      三月 百済の東域王が使臣を遣わして婚姻を請うので重主の娘をおくった。七月、臨海と長 

      嶺の二城を造って倭に備えた。















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