3 磐井以前の歴史
ここで、磐井が生きている時空を離れて著者は磐井の前史をなるべく簡単に書こうと思う。この前史は古事記や日本書紀、隋書倭国伝、三国史記といった日本や中国、韓国の歴史書から適宜、抜粋して並べた物で作者の創作したものではないことをあらかじめお伝えします。これらが描く古代日本が教科書で習った古代日本と相違していると思うが許していただきたい。
磐井の前史
西暦372年 百済王は倭王のために七支刀(刃が木のように七つに枝分かれしている祭事の装飾品)を贈った。刀の刃に文がつぎのように刻まれている。
泰和四年(369年)5月16日、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。出陣しては百たびの戦を防ぎ、礼儀正しい倭王が帯びるにふさわしい。先の世からこのような剣はない。百済王の世子貴須は特別に倭王 旨 のために造って、後の世に伝え示すものである。
七支刀は物部氏の宝庫であったとされる、奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾と呼ばれて伝えられていた鉄剣である。明治になって大宮司が文が刻れていることを発見した。
西暦391年 高句麗は王の死後二年目のこの年、北韓に広開土王の業績を伝える石碑を建てた。
石碑に彫られた文
百済、新羅は高句麗の属民であって以前から朝貢して来ていた。であるのに倭は永楽元年(高句麗暦・ 西暦391年にあたる)海を渡ってきて百済・□□・新羅を襲って倭の臣民としてしまった。
永楽九年(399年)、百済は高句麗の臣民であるとの契約を破って、すすんで倭と親しくした。
広開土王の軍が平城(現、ピョンヤン)に南下すると新羅は使者をよこして「お聞きの通り倭人がその 国境に満ちあふれて城や塀を打ち破り進入し支配しています。助けてくださるようお願い致します」と
言った。その翌年高句麗は歩兵、騎兵あわせて五万を新羅に向けて発信させ、新羅を救援させた。
倭は高句麗が進入すると退却し、更に滅亡した。永楽14年(404年)倭は奪回をもくろんで再び帯方郡に進入してきたが高句麗軍によって殲滅された。