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29 三国史記 本編

475年 高句麗王巨璉(きょれん)が兵三万を率いて百済の都、漢城を包囲した。百済王は出て闘う事ができず、城門を閉じて籠もった。高句麗軍は兵を分けて城に通ずる道を閉ざし、大門に火をかけて焼け落とそうとした。それで城内の人々は恐れおののいて、出て降伏しようと言い出す者がいた。王も困り果て、良い考えも浮かばないから、数十騎を率いて城門を出、西へ逃げたが、高句麗の追撃を受け殺害された。(百済本紀)

474年 七月、高句麗王巨璉(長寿王ちょうじゅおう)が、兵を自ら率いて、百済を攻めた。百済王のけいが王子の文周を新羅に派遣して救援を請うたので新羅王は兵を出してこれを救った。しかし新羅軍が王都に着く前に百済はすでに陥ち、王の慶は殺された。(新羅本紀)

475年 九月、高句麗王は兵三万を率いて百済を侵して、その王都の漢城を陥し、王の扶余慶ふよけいを殺して、男女八千人を捕虜として帰った。(高句麗本紀)

475年 百済皇子の文周が新羅の兵一万を引き連れて帰ったときには、高句麗軍はすでに退散し、城は破れ、王は亡くなっていたので、文周が即位した。王は性格が優しく、決断力に欠けていたが、民を愛する心があったので、民も王を愛した。十月、王は都を熊津(公州)に移した。(百済本紀)

476年 倭人が東辺を侵したので、新羅王は将軍徳智に命じて、打ち破りさせ、二百余名を殺したり捕虜にしたりした。(新羅本紀)

 三月百済の文周王は使者を宋に派遣したが高句麗が道をふさいでいるので行くことができずで帰ってきた。(百済本紀)

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