27 倭人伝以外の本編に書かれた三国関係
現在、通常に流布しているのは「倭人伝」の部分だ。「三国史記」の本伝中、「倭」にかかわる記事のみをまとめた物がいわゆる「三国史記倭人伝」である。「三国史記」のほうには、高句麗と百済、高句麗と新羅、新羅と百済、三国と中国、などの関係が描かれているから本伝を読まず倭伝を読むだけでは当時の状況はわかり得ない。本伝は現在、新本はなく古書として流通するのみであるから高価(一冊三千円はする!)である。筆者はそれほど豊かではないので、図書館を探して読むことができた。以下はその本から得た知識なのだ。古くは紀元前に始まる記事もあるのだが、ここでは倭がひんぱんに新羅を襲い始めた五世紀半ばつまり西暦450年あたりからの出来事を転記してみたい。
西暦450年 七月に高句麗の辺境の将が原で狩猟するのを新羅の一城主三直が兵を出して殺して しま った。高句麗王はこれを聞いて大いに怒り、使者を送って言う「私は新羅と修好す るのを喜びとするものであるのに、兵を出してわが将を殺した。これは何という考えであるか」と。高句麗王はすぐに兵を出して新羅の西方を襲った。新羅王が丁重にお詫びしたので、やっと帰って行った。(新羅本紀)
新羅人が辺境の守備将を襲って殺したので、高句麗王は怒って兵を挙げてこれを討とうとしたが新羅王が使者を派遣して謝罪したので中止した。(高句麗本紀)
454年 七月兵を使わして新羅の北辺をおかした。(高句麗本紀)七月に霜とヒョウが降って穀物を害した。八月に高句麗が北辺を侵した。(新羅本紀)
星が雨のように落ち箒星が西北の方に現れたが、長さが二丈ばかりあった。八月、イナゴが穀物を害し凶作となった。(百済本紀)
455年 高句麗が百済を侵したので新羅王は兵を派遣して百済を救援した。(新羅本紀)