25 百済と倭国
前章では倭に海を介して接している新羅の苦汁を飲む有様を検証したが、今度は百済の苦悩が気になった。朝鮮半島の東側寄りは山が連なり通行が困難だが、西海岸は山などの障害物はない。したがって半島、根付け部から北に広がっている高句麗と百済は直に国境を障害物もなく接している。であるから百済にとって高句麗は新羅の倭に等しい存在であった。百済にとっては倭はさほどまがまがしい存在ではなかったようだ。百済の歴史書である百済本紀を開いてみよう。
397年 王は倭国と友好関係を結び、王子の腆支を人質としてして倭国に送った。402年5月 使いを倭に遣わして大真珠を買い入れさせた。
403年 倭国の使者が到来する。王は迎えに出て、使者をねぎらうこと特に手厚かったという。
405年 百済王が亡くなった。王の二番目の弟である訓解が政治を執り行った。これは王子である腆支が倭国から帰ってくるまでの中継ぎであったが、末弟の碟礼が訓解を殺して王となってしまった。倭王は兵士百人で王子を守って百済に送らせた。百済の国境に着くと、弟が国王となってしまったから、不用意に入国しないように告げられた。
王子腆支は倭人を帰国させないで自衛し海中の島で時の来るのを待った。百済人は王となってしまった碟礼を殺して腆支を王として迎えた。
409年 倭国は使を遣わして夜明珠(不詳。球形の何らかの宝石と思われる)を送ってきた。
418年 百済は使を倭国に遣わして絹織物を贈った
428年 倭国の使がやって来る。従者は50人である。
倭と新羅の関係にくらべると倭と百済の関係は、冬の日だまりのような暖かさである。しかし428年より608年までの間、百済本紀に倭関係の記事が途絶える。百済はこの間の記録を消去した可能性がある。・・・そのようにも読み取れるが、百済は倭国にとって親戚のようなものだったというのが適切かもしれない。つまり百済と任那王家と倭国は親しかったと見るのが正しい視点だとおもう。これらの記事を載せている「三国史紀」は後の高麗王国の手によって1145年に成立をみたものである。倭との濃厚な血縁関係を記すことは高麗にとって不都合であったのかもしれない。