24 受難の半島
新羅は朝鮮半島の東海岸に位置する国だ。古来、海賊のたぐいの被害が絶えなかった。新羅本紀の倭人伝(倭人に関する記事)にすら、つまり倭人からの被害だけでも数多くの記録が残されている 西暦紀元前50年 倭人兵をつらねて、辺を犯さんとするが、始祖に神の威徳があると聞いて引き返していった。 西暦14年 倭人、兵船百船を遣わし、海辺の民戸を掠む(盗みを働く)6村は衛兵を発してこれを防ぐ。 西暦243年 倭の女王 卑弥呼、使いを遣わす。 西暦193年 倭人大いに餓える。来たりて食をもとむる者千余人なり。 西暦232年 倭人、にわかに至りて金城(新羅の王城)を囲む。王、みずから出でて闘う。賊は逃走するが、馬を出動してこれを追撃する。兵を討ち取ること千人に及ぶという。 西暦287年 倭人一礼部を襲い、火を放ちてこれを焼き、人一千人を虜にして去る。 西暦295年 王は臣下に言う。「倭人がしばしば我が城域を犯す。人々は安らかに暮らすことができない。私が百済と謀って、一斉に海に浮かび、その国に入って撃とうと思う。どうであろうか」と。臣下は答えて言った。「私達は水戦に習れておりません。危険を冒して遠征すれば、恐らくは不足の危ないことがあるでしょう。まして百済は心が清らかでなく、嘘が多く、いつでも新羅を飲み込もうとしています。また計りごとを共にするのも難しいと思います」 王は言った。「そうであるな」 と。西暦344年 倭国は使いを遣わして結婚を請うた。王は断るために、王女はすでに結婚してしまったと言った。西暦345年 倭王は新羅に対して(前年の事で)交わりを絶つと書を送る。 西暦346年 倭兵がにわかに風島に来て辺境の人家で略奪をした。さらに進んで金城を囲み激しく攻めた。王は城から兵を出して闘わせようとするが、臣下は「賊は遠くから来て、その鋭い勢いには対抗できません。いましばらく城外に待たせて勢いを削ぐべきです」と言う。王は、その通りだと思い直し、城門を閉めて兵を出さなかった。 賊は食料が尽きたので退却しようとした。そのとき王は兵を出して追撃し敗走させた。 西暦364年 倭兵が大挙してやって来た。王はこれを聞いて、おそらく戦えないだろうと草で数千体の人形を作り衣を着せ、標高700㍍の山のふもとに立たせ、一方で生身の勇士を近辺の草原に伏せさせた。西暦402年 倭と和解し奈勿王(第17代新羅王、在位356~402)の子、未斯欣を人質として倭に送った。・・・この他に、省いた多くの出来事があったが、今はこれに留めようと思う。