22 倭国の古文書
2003年12月3日京都市の古賀達也という方がつぎのような文書を書いている。 宇佐八幡宮(大分)は古代に枢要な神社であることは有名であるが、その宇佐八幡宮に残された文書がある。宇佐八幡宮御託宣集と言い、正和二年(1313年)、時の宇佐八幡宮筆頭神官 神吽なる人の手になるものである。元暦元年(1184年、頼朝旗揚げの頃)七月一日豊後(大分県から宇佐市、中津市を除いた地域)の緒方と言う者が宇佐宮の宝と言うべき文書を盗み出した上、宇佐宮、人宅などを焼き払った。神吽はこれを憂えて正応三年(1290年)2月10日宇佐宮の由緒記録を集めて編集を始めた。23年を経た正和二年(1313年)八月、この事業は完成を見た。その時神吽は83才であったという。善記元年(大和朝にはそんな年号はない、日本古代の優れた研究者古田武彦氏の言う倭国年号、522年)大唐より八幡大菩薩(大薬姫)は日本にもどりたまいて筑前国香椎に居を定められた。それ以前、姫は新羅との戦いの間、懐妊していたが、石を腰にさして言われたという。この石が霊験ある石ならば、私の赤子は今日から七日目に生まれるでしょうと。 以上が氏の伝える文書である。・・・この説話は、日本書紀の神功皇后の説話に酷似している。1313年当時、日本書紀の内容は良く知られたことだったからそれを真似ようとすればできたが、その由来が宇佐神宮の古文書であるという点で注目すべきだ、日本書紀の「一書」の一つが、このような古文書であったと思われる。しかもその文書が出てきたのが九州の大分という倭国が存在した場所である。日本書紀の記事の多くは倭国の古文書によっている可能性大である。