21 古事記に見える嘘
中国においては焚書坑儒によって文書が壊滅的に失われてしまったけれど、たまたま記憶力が超人的な老人がいたということで多くの文書が再生されたと言うことだ。一方大和の王家では焚書坑儒の記事もないのに、ましてこの西暦400年代の時点において、とりわけ有力な大和や九州を中心とした倭国に文書は沢山あったと考えられるのに(実際日本書紀には「一書に曰く」とより古い書物の存在を数多く記している)太安麻呂は古事記序文で阿礼という記憶者の記憶するところによって古事記が成立したと、空々しい嘘を述べているように見える。つまりは以下のようだと考える。漢字文化の伝搬していない草深い地方王家には語り部はいたと思うが、加羅と頻繁な交流があった、倭国、大和国には加羅より来た、百済、新羅人が珍しくなく漢字による記録は行き渡っていたと考えられる。安麻呂は細部では語り部の語るところを書き留めたであろうが、資料のほとんどは文書によるものであったのだと思う。大和王家は、倭国がすでに亡んだその時点、日本書紀が成立する西暦720年、倭国、出雲、吉備、大和、地方諸国の文書、口伝をすべてに目通した後で日本書紀に利用した後に、徹底的な「焚書」を強行したのだ。これには驚くべき事に「古事記」も含まれていたと思われる。 古事記には日本書紀と矛盾する、真実に近い記述が多いので、古事記を残すと、日本書紀の嘘がばれてしまうという理由であるとおもわれる。古事記は720年の時点ではあってはならない書であったのだ。日本書紀はその努力が実って、1300年後の我々をも見事に呪縛しているわけである。古事記序文にはこうした意図が透けて見えすぎる、それゆえ古事記も焚書すべき書物なのである。こうして、この壮大なロマンを持った大嘘によって鎌倉武士に続く武士の時代にも大和朝廷は全滅することなく、日本独自の万世一系という独特の歴史を作り上げる原因となったわけである。天皇家が滅びようという鎌倉初期の承久の乱に生き残れたのもまさに書記の呪縛であったのではないだろうか。