198 任那滅亡に対する日本の出兵
欽明二十三年(562年)一月、任那は遂に滅亡した。この年七月に、日本は大将軍紀男麻呂(紀氏は蘇我氏と同系という)を韓地に遣わして、兵を率いさせて、哆唎(現、忠清北道南部。朝鮮半島中部の内陸部中央である。日本から行くとすれば、東岸の新羅側に兵をつけると考えるが、日本は半島西岸の百済側から進み半島中央部の百済、新羅国境部の哆唎に到達したようである。ここより兵を出したと言うことは、この軍の多くが百済の兵かもしれない)より出立した。そして新羅が何故任那を占領したのかを新羅に聞きただそうとした。ついに任那に到達して薦集部首登弥(未詳)をして、百済に遣わして(筆者註・はてな?である。紀男麻呂は、新羅の支配する任那側、つまり半島南岸から、半島中央部に兵を進めたのであろうか?何故なら、この文によれば、百済を経て哆唎に至ったのではないようである)戦闘の計画を立てさせた。登弥は妻の家(筆者記・占領された任那領辺地であろうか)に泊まり、百済との契約書と弓矢を道に落としてしまった。それによって新羅は、事細かく新羅攻略の計画を知る事ができたのだ。
新羅は大軍を興したが、敗退し、帰順致しますと日本の軍に伝えてきた。紀男麻呂は戦いに勝利したので百済の陣営に将兵とともに戻ってきた。そして軍の者達に言った。「勝っても破れることを忘れず、平穏であっても危うい時の事を思い計るは、古来の良い教えである。今いるあたりは山犬、狼と言って良い者どもが交わっているところである。しかるに、それを軽々しく忘れて、後の災いを考えないと言うことがあってよいものではあるまい。言うべくでもないが、平穏の時にも刀剣を身から話さない。まして君子の武備は怠ってはならない。皆はこの言葉を尊んで忘れるべきではない」と。兵達はそれを聞いて改めて心を引き締めたのである。副将の河辺臣瓊缶は、いまだ転戦して、向かうところは皆、落とした。
新羅は白旗を挙げ、武器を捨て降伏した。河辺の臣は兵道に疎いものであったから、自分も白旗を挙げて、新羅勢に向かって進んで行った。