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196 任那の滅亡

 欽明十八年(557年)三月 百済の王子 余昌よしょう継いで立った。これを威徳王いとくおうとした。


 欽明二十一年(560年)九月。新羅は日本に称至己知奈末みちこちなまを遣わして(称至己知は名、奈末は新羅官位十七階の十一位)貢ぎものを献上した。使いに与えられた賜りものは常よりも豪華なものであった。奈末なまは喜んで帰った。


 欽明二十二年(561年) 新羅は久礼叱及伐干くれしきふばつかん及伐干ふばつかんは新羅十七官位の九位)を遣わして貢ぎを献上した。使いに与えられた賜りものが常より劣るので、及伐干は怒り恨んで帰った。新羅はまたこの年、奴氐大舎ぬてださ(奴氐は名、大舎は新羅官位十七位の十二位)を遣わして、先の使いが献上しないままであった貢ぎ物を献上した。難波の接待用官舎において、諸外国の席次を決める時に百済の下に導いて席とした。大舎は怒って帰り、穴戸(現在の長門)に戻ってきた。そのとき穴戸では館を修繕していた。「これはどんな客の為に修繕しているのか」と問うと、「西の国の無礼な事を問責するための使者が泊まる宿だ」と言った。大舎ださは国に戻ってから、その言ったことを告げた。それで新羅は城を阿羅波斯山あらはしのむれ(安羅の波斯山か、とすれば、南の海岸に面した山である、すでに安羅は新羅の手中に落ちていたことを示している)を築いて日本に備えた。


 欽明二十三年正月 新羅は任那の宮家を滅ぼした。ある本に、二十一年に任那は滅んだと記されているという。(筆者註・前記の築城の記事から推測すると、その時すでに宮家は滅ぼされていたと考えるのは妥当である)任那と言うとき、全体を任那と呼び、分けては、加羅国・安羅国あらのくに斯二岐国しにきのくに多羅国たらのくに卒麻国そちまのくに古嵯国こさのくに子他国したのくに散半下国さんはんげのくに乞飡国こちさんのくに稔礼国にむれのくにという、合わせて十国である。


 (筆者註・遂に任那は落ちてしまった。ここに、はじめて克明に任那諸国が書き記されているのは貴重である。百済に半占領の形で補佐されていた任那であったが、百済の力が落ち、日本からの支援も得られず、ついに任那は新羅の占領するところとなったのである。筑紫が一千名の軍兵を使わしたのは欽明十七年であった。それは、滅亡しかけた任那を救うためであったが、その軍兵もいつしか万という新羅軍の前に敗れ去ったように思える。書紀では、大和国は百済支援に兵を出したように書いているが、新羅から使者が来たりして大和国と新羅とは妙に親しい。このちぐはぐさは書紀のこのあたりの描写が史実を伝えていないことから起きる現象と思われる。任那・百済・新羅と日本の関わりを克明に書いて行くとついにはそれは、倭国と大和国の状況を描いてしまうことになってしまう。これは大和国にとっては非常に都合の悪いことなのである。磐井の死後、子の葛子や、倭国の一族がどうなったかを、書紀は決して語ろうとしない。時々磐井につながりそうな筑紫の君や筑紫の軍兵が謎かけのようにわざとらしく登場するが、それは抹消された倭国を示そうとする書紀執筆官の理性の抵抗なのである)


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