194 百済王の死と王子
欽明十六年(555年) 二月 百済の王子余昌は王子恵(余昌の弟)を、日本に遣わした。津の役所に辿りついて王子恵は言った。
「聖明王は賊のために殺されました」と。それを伝え聞いた天皇は心を痛められた。すなわち使いを出して津において饗応し慰められた。(筆者記・津は博多の港か難波の港か定かではない、書紀がここで単に津と言って名を伏せているのは、筑紫の博多の名をあげる事にさし障りがあったからではないだろうか。前記の筑紫の国造の韓地における弓での活躍から、この戦いでの日本側の主勢力が、筑紫の「倭国」であったとも考えられる。倭国はこの時、いまだ存在しているのではないだろうか。また、わざわざ倭国の存在を想起させる「筑紫国造の活躍」を持ち出してくることの中に、書紀編纂官の強い意図が感じられる)
許勢臣(日本側の使い)は王子恵に問うた。「ここに留まろうと思いますか、それとも百済に帰ろうと思いますか」と。恵は答えた「天皇の徳にたよって、父王の仇を討ちたい。哀れんでいただいて、多くの兵を頂けるならば、恥を清めることは、私の願いであります。しかし私が帰国する、しないはただ、天皇の命ずるままでございます」
しばらく後に蘇我稲目が慰問にやって来て言った。「聖明王は、その賢さで、名が四方八方に知られていました。王は長く国の安寧を保ち、海西の国を治めて、千年・万年、天皇にお仕えしようとしておられました。しかし図らずも、にわかに亡くなられて行きて帰らざる川水のように帰ることもなく、墳墓の暗い部屋に休まれるとは、なんと痛々しく、なんと悲しい事でしょうか。およそ心のあるもので傷心しない者はいません。さてそうした過酷な状況ながら今は何の方策をもって国を鎮めようとお考えでしょうか」
百済王子の恵は答えた。「私は天性愚かでありますゆえ、大きな計などは立てられません。まして禍福のよって来たるところや、国家の存亡のゆえんを知ることがありません」と。