表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
194/226

194 百済王の死と王子

 欽明十六年(555年) 二月 百済の王子余昌(よしょう)は王子(けい)(余昌の弟)を、日本に遣わした。津の役所に辿りついて王子恵は言った。

「聖明王は賊のために殺されました」と。それを伝え聞いた天皇は心を痛められた。すなわち使いを出して津において饗応し慰められた。(筆者記・津は博多の港か難波の港か定かではない、書紀がここで単に津と言って名を伏せているのは、筑紫の博多の名をあげる事にさし障りがあったからではないだろうか。前記の筑紫の国造の韓地における弓での活躍から、この戦いでの日本側の主勢力が、筑紫の「倭国」であったとも考えられる。倭国はこの時、いまだ存在しているのではないだろうか。また、わざわざ倭国の存在を想起させる「筑紫国造つくしのくにのみやつこの活躍」を持ち出してくることの中に、書紀編纂官の強い意図が感じられる)

 許勢臣こせのみ(日本側の使い)は王子恵に問うた。「ここに留まろうと思いますか、それとも百済に帰ろうと思いますか」と。恵は答えた「天皇の徳にたよって、父王の仇を討ちたい。哀れんでいただいて、多くの兵を頂けるならば、恥を清めることは、私の願いであります。しかし私が帰国する、しないはただ、天皇の命ずるままでございます」


 しばらく後に蘇我稲目そがのいなめが慰問にやって来て言った。「聖明王は、その賢さで、名が四方八方に知られていました。王は長く国の安寧を保ち、海西の国を治めて、千年・万年、天皇にお仕えしようとしておられました。しかし図らずも、にわかに亡くなられて行きて帰らざる川水のように帰ることもなく、墳墓の暗い部屋に休まれるとは、なんと痛々しく、なんと悲しい事でしょうか。およそ心のあるもので傷心しない者はいません。さてそうした過酷な状況ながら今は何の方策をもって国を鎮めようとお考えでしょうか」

 百済王子のけいは答えた。「私は天性愚かでありますゆえ、大きな計などは立てられません。まして禍福のよって来たるところや、国家の存亡のゆえんを知ることがありません」と。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ