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191 任那 風前の灯

 欽明十五年十二月 百済は下部杆卒汶斯干奴かほうかんそちもんしかんぬ(下部は百済五部の一。杆卒かんそちは、階位十六位の五位、斯干奴しかんぬは未詳)を日本に遣わして、百済王の言葉を告げた。

「百済の聖明王及び安羅に在する宮家の諸臣が申しました。『思い返せば、新羅は無道であり天皇に従わず高句麗と心を同じくして、任那宮家を打ち砕き、滅ぼそうと思っている。そこで私達はともに協議して、日本に軍兵の出動を願って、新羅を征伐しよう』と。それによって天皇の使わす内臣うちのおみは軍を率いて六月に百済にやってまいりました。わたし(百済王の事)は、そのことを大変喜びんだのであります。そして十二月九日には新羅を攻めにやりました。わたし東方領物とうほうあずかりもの(百済東部の長。百済は都以外の地を、中・東・南・西・北の五部に分け部ごとに軍事指揮官を置いていた。周書・百済伝に《五部にそれぞれ長として達卒たつそち有り、配下に武将を三人置いて徳卒とくそちと呼んだ。部に所属する兵は1200人から700人》とある)の物部莫奇武連もののべのまがむのむらじをして、その方面の軍師を集めさせ、函山城かむむれのさしを攻めさせました。内臣うちのおみが将軍となって連れて来たところの日本兵、筑紫物部莫奇委沙奇つくしのもののべのまがわさかは、たくみに火がついた矢を射こみました。天皇のおかげをもちまして、十二月九日の夕べには、城を焼いて占領致しました。それで単独で早船を使わして奏上した次第であります」

 

 さらに、加えて記すには「もしも、敵がただ新羅だけならば内臣うちのおみが将となっている軍兵をもっても足りるでありましょうが、今は高句麗と新羅が示し合わせているので、勝利を得ることは難しいのです。伏して願うことは、筑紫の諸所の軍兵を、わたしの百済の国に遣わして助けたまえ。また同時に任那を助けたまえば、勝利を得る事ができるでありましょう。」


 

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