190 任那風前の灯
欽明十五年(554年)正月七日 皇子渟中倉太玉敷尊(次代の敏達天皇)を立てて皇太子(世継ぎとさだめられた皇子)とした。
正月九日 百済は施徳文次(施徳は百済官位十六の八位)らを筑紫に遣わして内臣・佐伯連に告げた。「徳卒次酒(徳卒は官位十六位の四位)らが、去年閏十一月四日に参りましたときに『内宮らは、来年一月には任那に行くだろう』と聞きましたが、本当なのでしょうか。来るのでしょうか、来ないのでしょうか。また軍兵の数はどれほどなのでしょうか。願わくば、おおむねをお聞かせ頂いて、あらかじめ陣営を作らせておきたいのです」
さらに言葉を継いで言う。「百済王が言うには、賢い天皇のお言葉を承ってのち、筑紫に詣でて賜る軍兵が百済に向けて出港するところを見送れとの事でした。これを承った私は喜ぶことたぐいがないほどでした。今年の戦いは、はなはだの困難が予想されます。願わくば正月中に到達するようにして頂きたい」(筆者註・百済の官、文次は、ここで、この月内に、せめて日本に近い韓地南岸の任那に日本の軍が到達するように乞うている!この日は正月九日であるから、あと二十一日内に任那に到達して欲しいと言うことを述べているのである。従って、この会話がされた場所が、大和でなくて筑紫であることが鮮明に判る。私は未だ、日本の中心が筑紫にあったという考えを捨てきれない。又言うが、この期日を克明に記した会話には、真実を書き残したいという、特定の書紀執筆者の意図が隠されているように思えてならない。)
これに内臣は天皇のお返事を受けて言った。「すなわち助けの軍の数は一千・馬百匹・船四十隻を遣そう」(筆者註・この決定の主である天皇がもし大和にいるならば、この決定の返事が返ってくるまでに優に一と月は要するだろう。この表記は、あたかも天皇が筑紫にいるようである!とても一月内に出帆すらままならないではないか。)
五月三日 内臣、船軍を率いて、百済に至る。(筆者註・結局は一月内に到達すべき願いは、叶わず五月の到来であった事を示している。しかし、願いの会話の前提は一月に到達できる可能性を前提として話しあわれている。ここにわざわざ五月到達と疑わしい期日を記すのは、書紀執筆者自身の保身の為とも考えられる。)