188 任那 風前の灯
この年に、百済は戦って得た、漢城と平壌の占有を放棄した。それによって新羅は漢城に入ったと言う。(筆者註・新羅と百済・任那は連合軍を以て、高句麗と戦い、高句麗を敗退させたが、これは百済の勝利に継がらなかった。新羅は勝利すると百済をさっさと見限って、漢城を横取りして、しかも欽明六年に内乱のあった不安定な政情の高句麗に取り入り、通じた。百済にとっては幸いが災いの元となってしまったのである。これはまさに百済に取っては国の存亡に関わる緊急事態の発生であった。この後、百済は日本に対して出兵の要請をくり返す事となった。)
欽明十四年(553年) 正月 百済は上部徳卒(百済は地方が五つに分かたれている、その一つ上部の筆頭官。官位十六の四位)の科野次酒らを遣わして軍兵の出動を願った。
六月に日本は百済に向けて、良い馬二頭・多くの木材で建造した大型船二隻・弓五十張・矢五十|具(つがえ(2500本)を送って天皇は「請求した軍兵は百済王が自由に用いてください」と言った。(筆者註・百済を救うというには随分こじんまりとした援軍ではあるまいか。書紀中に、蝦夷人を韓地に出兵させようとして、反乱を起こされた記事がある。韓地に送られる兵の身になって見れば、いうなれば戦う奴隷になるようなものであるから、当然、大和国は兵集めに苦慮したであろう。もともと大和国は、韓地の情勢がどうなろうと他人事であったから、このような些細な援軍となったと思える。しかし無関心ながらも韓の一つの国が強大になるのを恐れ、韓地の情勢に口を出すかのようである。また、この時期の書紀における度々の天皇の登場は、大和国の存在を誇示するための演出と考えられる。倭国とくらべて大和国には任那や百済に対して深い思い入れがないように見える、倭国の崩壊(磐井一族の死)とともに任那は見捨てられたに等しかったと言えないだろうか。大和国はもともと任那とは血の薄い継体天皇が発祥の王家といって良いから、任那の過酷な状況にわれ関せずであったのは仕方の無いことではあるまいか。この時期、大和国の主とした関心は、いまだ残存する倭国の地方国主の力を奪い、徐々に屯倉を増設し、国内平定をすすめることにあった。)
八月 百済は再び科野新羅らを遣わしてきた。そして上表して言った。
「去年、百済の臣等は、任那宮家の事で、ご相談申し上げました。お言葉を待つこと春の草が、甘雨を仰ぐごときでありましたが、さらに今年になって聞くところによりますと、新羅と高句麗は共に謀って『百済と任那はひんぱんに日本に詣でている。これを思うに、軍兵を乞うて、わが新羅を討とうとするものだ。そうであるのなら新羅が滅びるのは遠い日ではあるまい。できるならば、日本の軍兵がやって来る前に安羅を討ち取り、日本の路を絶ってしまおう』と言ったということです。私らはそれを伝え聞いて深く恐れおののいています。それで早舟を駆使してお願いにやって参りました。伏して願うことは、慈愛の心を頂いて、前軍・後軍を続々と繰り出して救って頂くことです。遅くとも秋の頃には任那の宮家を増強したいと考えております。もしこれに遅れるような事があるならば、ほぞを嚙んでも及ばない事になりましょう。遣わすところの兵に衣食を用意いたします。それは任那に駐留なさっても同じです。任那だけで調達が不能であるなら、私どもが必ずご用意いたします。・・・ところで的臣は長らく天皇の命を受け、任那の国を守るため、早朝から深夜まで尽くしており、諸国は日頃、それを褒め称えておりましたが、このところ死去なされてしまいました。今、われらはそれを深く悼むところでありますが、今後任那は誰が治めていけるでしょうか。なにとぞ速やかに後任を遣わして任那をお鎮め下さい。また、こちらの諸国は弓馬が不足しておりますので、弓馬を賜るようお願い致します。」