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187 滅亡に向かう任那

 欽明十一年二月の十日 日本は使いを百済に遣わした。もたらした書に言う。「朕は久貴こんくい馬進文めしもんらの上表文の意を汲んで、あたかも我が手の内を見るように一つ一つ教え示そう。大市頭だいしず(未詳)が帰ったあとは、任那は相変わらずであった。今は細かく伝えようと思い使者を遣わしたのである。朕は奈卒馬武なそつめむが、百済の官位十六位註の六位の地位にあり、良く上に奏上し、下に伝えることを良くし、王の心にかない王の助けとなっていると聞いている。もし百済の政情が許すなら、馬武を任那宮家の筆頭に立て、我が朝廷に仕えよ(筆者註・この条は非常に難解で意味不明であるが、悪戦苦闘のすえ、私はこのように訳した)」あわせて「朕の所には高句麗が凶暴であることが伝わっている。それゆえ矢、三十(そなえ)(1500本)を与えよう。願わくば要所を良く守って欲しい。」


 四月 百済に来ていた日本の使い人が帰ると言うことになったので、聖明王が使いに語って言った。

「任那を守る事は固く約束します。(任那宮家の)延那斯えなし麻都まつのことは、問われようと問われまいと、ただ天皇のみ心のままにいたします。」


 欽明十二年 三月 麦の種一千(さか)(斛は一石と同じ。つまり十升。ただし当時の一升は現在の四合ほど。一千斛は今の四千升=四百石に相当する)を百済の王にたまう。

 この年、百済の聖明王、自国の兵と新羅・任那の兵を合わせ、自ら率いて高句麗を討って、漢城かんじょう(475年に高句麗に落とされるまで百済の王都であった)を得た。さらに兵を進めて平壌(現在のソウル)も落とした。これによって百済は旧領地を取り返した。


 欽明十三年 五月 百済・加羅・安羅は上級官吏、木刕今敦もくらこむとん阿斯比多羅あしひたらを日本に遣わして奏上して言った。

「高句麗と新羅とが通じて、勢力を合わせて、百済と任那を滅ぼそうとしています。それで、救援の兵をお願いして、不意打ちをしようと思います。軍兵の数は、天皇におまかせします」

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