186 滅亡に向かう任那
欽明九年(548年)正月 前年来朝した百済高官の真慕宣文奇麻らが帰国するという。よって天皇は言った。「救いの軍兵は必ず要請の数だけ遣わそう。帰国したら速やかに王に報国せよ」
四月 百済は官位十六階の五位 掠葉礼などをつかわして奏上した。
「宣文らは詔を承って我が百済に至って言いました。『言われた数の兵は、必要な時に送るとのお言葉を賜っています』と。一同はあたたかなお言葉を頂いて喜びました。しかし今年正月の馬津城に百済の捕虜となった高句麗兵が話すことには『安羅の国と任那宮家が高句麗に百済進入を勧めたのである。』という事でした。考えてみれば、ありそうな事です。その事をたしかめようと、安羅と任那宮家を呼びましたが参りませんでした。このことを私は深く心配しております。賢き天皇にあらせられましてはなにとぞよろしくお調べになってください。お願いしてある援軍はしばらく見合わせ、私がお願いするまでは発進しないでください。」
天皇はお返事として次の言葉を百済王に送った。
「使いの申した事によって心配しているのが良く判った。任那の宮家と安羅とが隣国の災いを救わなかったのは朕の深く苦しく思っていることである。高句麗に密使を使わせたと言うことは信じてはならない。朕が命を出さぬのに、勝手に動く事ができようか。百済王は衣を緩めて静かに心安らかにして、深く疑い恐れることはありません。任那とともに力を合わせ、ともに高句麗を防いで、各自の領地を守りなさい。朕は安羅が逃げ滅んだ(筆者註・安羅はこの時期、任那宮家の存在したところであるから加羅の間違いではないかといわれるが、加羅が逃亡したという記事はない。欽明五年の記事からすでに三年が経っているから、任那筆頭にして、洛東江西岸の前哨である安羅はついに、新羅に倒された事を、この記事は表しているのかもしれない)虚しき地に若干の兵を送りて当てるであろう」
六月二日 朝廷は百済に遣いを出して言った。「宣文が帰国したあとはどうなったのであろうか。どんなありさまであろうか。朕が聞くところによれば、百済は高句麗に打ち破られたと聞く。どうか任那と力をあわせて防衛に努めてください。」
閏七月十二日 百済の使い人、掠葉礼が国に戻っていった。
十月 三百七十人を百済に遣わして城を得爾辛(現在地・未詳)に助けて築かせた。
欽明十年六月七日 将徳(位階。十六位の七位)の久貴・固徳の(位階。十六位の九位)馬次文らが、帰国したいと申請した(筆者註・二人の来日期日は未詳)。よって言われた。
「延那斯・麻都ら(任那宮家の反百済派官吏)が密かに使いを高句麗に遣わしたと言うことが本当か否か、質す者を送ろうと思う。軍兵の出動は願いによって、停止する」