184 滅亡に向かう任那
欽明五年(544年)十一月 百済は任那宮家と任那の執事に向けて使いを出し、招いて言う。
「日本に遣した奈卒の得文・奇麻・奇非などが帰ってきた。百済に来て、天皇が託した言葉をうけたまわり、あわせて任那の問題を論じよう」と。
任那宮家の吉備の臣、任那各国の重臣の安羅国の大不孫・久取柔利、加羅の古殿奚・卒麻・斯二岐・散半奚の子、多羅の訖乾智、子他の王・久嗟の王などが百済に行った。
百済の聖明王は詔文(天皇からの文書)を示して言った。
「私は弥麻佐・己連・用奇多を日本に遣した。天皇が言われたことは『早く任那を立てよ』と言うことであった。また、別に津村の連に任那復興はできたかと尋ねられた。それで私は皆を呼んだのである。さていかにして良く任那を再建しようか。どうか、それぞれの計略を述べて欲しい。」
吉備の臣・任那の王達は言った。「任那を再建することは、ただ王(聖明王)にのみかかっています。我々は王に従って、天皇の命を聞き行動いたします」と。
続けて聖明王は言った。「任那の国と我が百済は、古来より今に至るまで子とも弟ともいう関係であった。今、任那宮家の印岐弥は、すでに新羅を討って、また我が百済を討とうとしている。又、喜んで新羅の奸策に乗っている。日本が印岐弥を任那に遣わしたのは、もちろん任那諸国を失う為ではない。昔より今に至るまで新羅は倫理なく、前言を翻し、信用を裏切り卓淳を滅ぼした。百済は、新羅と親しくしようとしても、ことごとく裏切られ悔いることになろう。それゆえ、あなた方を招いて、一緒に天皇の言葉を、ともに承り、願わくば任那の国を興し、次いで元のように、永久に兄弟でありたい。密かに聞くに新羅と安羅の間に大河(洛東江)があって要害の地であるという。私はここに(洛東江右岸《河口に向かって右側》。新羅は左岸の久礼山くれむれ》に五城を構えている)に六つの城を造ろうと思う。つつしんで天皇に三千の兵をお願いして城ごとに五百人、我が百済兵を合わせて、周辺の農地を守り、新羅に農耕させることを許さず、煩わせば、久礼山の五つの城は自然に投降するに違いない」