181 河内直(かわちあたい)はどうなったか
欽明天皇五年(544年)三月に百済は奈卒(百済官位16階の第6位)の阿屯得文・許勢奇麻・物部奇非などを、朝廷に遣わして書を提出した。
「奈卒の弥麻沙・己連らが百済に戻ってきて天皇の書を読み上げました。『汝ら、任那の宮家と合議して良い計画を立て、すみやかに任那を立てなさい。ついては良く用心して新羅に欺かれるでないぞ』と。また、津村守連なども百済にやって来て、天皇の書を伝えるとともに、任那の復興策を尋ねました。百済はつつしんでお言葉を受け、早速協議しようと使いを任那と任那宮家に遣わして呼びました。しかしながら、両者は「正月過ぎてから」「神祭りの時であるから」と数度に渡って来ず、来たと思ったら話しにならない身分の低い者でした。任那が呼ぶに来ないのは任那の本意ではないのです。任那宮家宮人のなすところなのであります。そもそも任那は任那の安羅を以て兄とし、ただ、その意にのみ従います。安羅人は安羅在の任那宮家を天として頂いております。任那宮家の的臣(任那宮家、最高位宮人)・吉備の臣・河内直などは皆、移那斯・麻都が誘導する策に従っているに過ぎません。これらは小さな家の卑しい者ですが、任那宮家の政務をほしいままとして、任那を専制し、任那が百済に行かすのを遮ったのです。このため天皇にお答えする相談も持てませんでした。そこで津村連を百済に留めて、別に飛鳥のように速い使いを送って、天皇に、奏上いたしました。移那斯・麻都が、このまま安羅で奸策を続行すれば、任那復興は難しいでありましょう。それでは海西の任那諸国は、これからも天皇にお仕えすることもできなくなります。伏してお願いするのは、この二人をもとの国に帰らして頂きたいと言うことです。それから任那宮家と任那復興の合議をなすべきでありますと。それで天皇からお言葉を頂きました。『的臣などが新羅に接近するのは吾が心ではない。昔、任那が新羅に攻められて農作することができなくなった。百済は道遠く、急を救うことができなかったのだ。的臣が新羅と行き来し、ようやく農耕が可能になったのだ。そういう経緯があるのである。もし任那が充分な力を得るならば、的臣らは権力の根拠を失って没落するであろう』と。この言葉を聞いて、私どもは深く感動いたしました。新羅と日本の接近が、天皇のみ心から出たものでないことを知ったからです」