177 欽明期の状況
「これより後は任那を大事にすれば、同族に帰ってくる恵みは篤い。今、心を失って新羅のそら言に耳を貸せば古人のことわざにある「覆水盆にもどらず」という事になりかねまい。良き人は親にならい身を修めてきた、これにならい、天皇の言葉に従って、昔通りの忠誠を尽くすべきである。いまこそ新羅の落とした南加羅・㖨乞吞等を、奪還し任那に戻しなさい。このままでは、汝は物を食べても旨くなく、安眠もできまい。そもそも新羅が常日頃甘言で人を欺いてきた事は世に知られたことではではないか、汝は、その術にはまってしまっているのだ。今は新羅の掘った落とし穴にはまらず、国境を固めなければならないときだ。そうでなければ、国を失い家を滅ぼして奴隷ともなってしまうであろう。私はそれを思うと、心が安まらない。聞くところに因れば、新羅と任那が謀事の席の際には怪奇現象があるとか。その怪異は両国の行いを天が戒める所から起きているのです。今は任那を復興に向けて立つべきです。どうしてできないと悩むことがありましょう、いずれにしてもこの道しかないのですから。」
使いは河内直にさらに言った。
「天皇のおっしゃるには、『任那がもし滅びれば百済が身を寄せるところがなくなるだろう。今、任那を復興すれば百済の助けとなるであろう。それゆえ任那を興して人々の幸いを期すべきである』ということでした」
欽明四年(543年)十一月八日 天皇は津守連(摂津の豪族)を百済に遣わして、言わしめた。「下韓(任那諸国)にいる百済の郡令城主を撤退させて任那の日本宮家の下につけよ」と。そして合わせて「しばしば任那を再建せよと文を送ること十年余りになる。しかるに、いまだそれが実現されない。任那は汝の国の統領である。もし統領が倒れてしまったならば、誰が国を保つことができようか。汝は今速やかに任那を再建すべきである。もし任那を再建できるならば、河内直は、新羅との連携を止めて、退くであろう。これは当然のことではないか。(筆者記・百済が真剣に任那復興に取り組まず、任那を領地にしようとするから、任那の代表である、河内直は、新羅に近づいて任那の独立を計ろうとするのだ。百済が任那から撤退して、任那の王と日本宮家を主とするならば、日本使官の河内直の新羅接近は止むだろう。それはいうまでもないことだ。・・・という意味)
聖明王はこれを受け取ったこの日、百済の高官達に問うて言った。「日本天皇からの文書は、そのような内容だ、いかにすべきであろうか」高官達は答えて言った。「下韓(任那諸国)の我が国の郡令・城主を撤退させる事はできません。しかし任那再建の努力はします」と。(筆者・任那の独立を奪っておいて、活力ある再建は不可能と考えられるのだが、矛盾した言い方である。任那国内は百済に対する憎悪が渦巻いている。百済は高句麗の南下策によって失った領地を任那吸収で補おうとしていた。国の活力は領地の拡大だけではなく、国の人々の覇気でもある。やがて花郎という騎士道に近い文化を生む新羅とくらべて、百済の覇気は低く、やることも場当たり的な惨めなものであったと言える。また日本も本国から兵を出さず、百済・任那・新羅、三国の調整で事を乗り切ろうとしていたようである)