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175 磐井なきあとの韓地政策

 磐井が殺害された後、日本の韓地政策はどのようなものであったのだろうか?それを書紀の記事から探り出してみよう。磐井の死が継体天皇の二十五年であるとしたことで、毛野臣の渡海や周辺の出来事の時系列ががズタズタになってしまっている。

継体二十一年に新羅に破られた南加羅、碌己吞とくことんを奪回するために、毛野臣は兵六万を発動するのだが、それ以前の記事は、(12年 弟国への遷都 17年 百済武寧王の死 20年 磐余いわれへの遷都 )で、毛能臣の進軍ほど影響がないように思える。問題は、二十一年の毛野の進軍である。この事項は磐井の反乱と密接な関連事項であるから、実際は二十四年に起きたことである。六月毛野臣は磐井に妨げられ停滞した。二十五年八月大連の物部麁鹿火もののべあらかいが発進して、この年の暮れ磐井は殺害される。 

 

 問題は、継体23年条の百済に任那の多沙津たさのつを譲る出来事だ。この多沙をめぐる譲り渡しは継体七年十一月条に、すでにあったことがふたたび書かれている。この継体23年の出来事のあるべき場所は、当然継体二十六年だが、そんな年次は存在しないから空位一年目の記事なのである。しかし、ここでの記事は、おそろしくいいかげんである。書紀執筆者である安麻呂はこの重複に気がつかなかったであろうか。いや、気がついていたはずである。ここであえて重複させて、この辺の年次をきわだたせているように見える。ここら辺は元来が継体26年(こんな年はないが)にあたる年である。安麻呂は、ここら辺の記事がでたらめである事を暗に示そうとしているというのは考えすぎであろうか。

 大和朝廷は韓地がどのようであっても、本音では植民地経営を見限った政権であるから、遠くから「ガンバレ」に近い「任那を立てよ」と声をかけるだけであるのだ。

 大和国にとっては韓地の問題などはどうでも良いのである。倭国を歴史から抹殺して、植民地主義から手を引き、国内の充実を、計るのみなのである。

 もはや、文書で倭国の隠蔽を果たした書紀執筆者にとっては、あとは、淡々とした下り道に見えたにちがいない。見かけとは違って大和政権は日本最初の鎖国政権とも言えるのではあるまいか。それゆえ、金冠加羅国が532年(継体26年=空位1年目)に落ちると、倭国を落とした大和国は海防に必死となるのである。

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