174 太安萬侶と倭国の意外なつながり
現在、古事記は偽書で平安期に作成されたのではないかという疑いが持たれている。余りにも乱れない古語や古い言い回し、古事記冒頭にある、編者、太安萬侶の饒舌さ、等々に疑いが持たれている。又、古事記が完成したと言われる和銅四年(711年)から、八年後に完成した日本書紀にも、それ以降の続日本紀にも、古事記の存在や古事記完成を示す記事が見あたらず、ただ古事記巻頭の太安万侶の序文の後に天皇への献上の日時が次のように示されているのみである。
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶
古事記の巻頭の太安萬侶の序は、あたかも太安萬侶の自己紹介と言った趣を持っている。・・・そして、古事記以外に太安萬侶の記事が見られるのは、日本書紀作成の後に宮中で開かれた書紀講読会の講義をまとめた「日本書紀私記」中の「弘仁私記」(多朝臣人長=太安萬侶の子孫・記)と「続日本紀」の中だけである。 弘仁私記の記事中には太安萬侶は古事記を作成し、日本書紀の編纂にも参加したしたと書かれている。続日本紀の慶雲元年(723年)の条には太安万侶が霊亀二年氏の長となる・養老七年(723年)死去し、民部卿従四位以下に処せられたとある。多人長については、後の官撰史書である「日本後記」に、宮廷において日本書紀の講義をしたという記事が見られる。
幸いなことに、昭和54年(1979年)1月23日 奈良県奈良市の此瀬町の山の茶畑から太安萬侶の墓が発見された。墓から一緒に掘り出された墓誌なる銅板に次のように記されていた。
左京四条四坊従四位勲五等太朝臣安万侶以癸亥
年七月六日卒之養老七年十二月十五日己巳
癸亥年養老七年は、723年にあたる。古事記成立が711年・和銅四年(古事記序文による)、日本書紀の成立が720年・養老四年(続日本紀養老四年五月の条による)であるから、これにより太安萬侶は日本書紀成立後なお三年生きていた事が判明する。
続日本紀の養老四年五月の条では舎人親王が完成した日本書紀を呈上したことが記載されているが、親王はあくまで書紀編纂の総責任者という立場であって、太安萬侶が主たる執筆者であったように思える。
日本書紀の執筆者が誰であったかは闇に包まれている。しかし、百年後の血族の頼りない資料であるが、多人長が太安万侶が古事記と日本書紀の編纂者であったと書いている。しかし前記したように、古事記は現在、後世の成立と疑われている事をかんがえれば、太安萬侶がかかわった史書は書紀のみであって、しかも主たる執筆者であったと考えられないだろうか。それは書紀成立の次年、朝廷の日本書紀についての講義の博士が安萬侶であったらしい事からも推測できる。
で、あるとすれば、日本書紀の継体天皇死亡年次移動の謎は氷解する。太安萬侶は多氏の一族である。多氏は皇別氏族(天皇家から別れた氏族)屈指の氏族で、神武天皇の子の神八井耳命の子孫だという。この神八井耳命は神武東征服のあと、九州北部を賜り庶流長子の手研耳命は九州南部を賜った。その後も火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の君などなど九州に関わる重職をしめた。
どうだろう、太安萬侶の先祖に滅亡した倭国が見えないだろうか。倭国につながる安萬呂の血筋は隠蔽された倭国を悔しいものに思わせたに違いない。書紀の文章は自分の思いのままである。講義をしなければ解る者などはいない。書紀にこっそり倭国の存在を匂わせても、大丈夫と安萬侶は思ったのではなかろうか。