172 書紀編纂者の隠された意志
書紀は、雄略天皇期あたりから、年記がきわめて精緻になったように思う。その精緻な年記を、崩してあえて空位を作るのは、編纂官吏達や天皇も含めた合意の上だろうか。ここでは歴史的事実よりも、継体天皇期を25年にすることに重点が置かれている。天皇合意の上でなら、書紀の書き方は、改変の証拠を残してしまうひどくまずいやり方ではないだろうか。せっかく大和国とは異なる倭国天皇の死を継体天皇の死と結びつけたのに、縮めた三年分を空位にするというのは、まさに嘘が、バレバレではないだろうか。これは、あたかも、「継体天皇とは別な日本天皇がいた!」と叫んでいるようなものではなかろうか。このような危険な文章をはたして誰が書いたのであろうか。書紀作成の目的を破壊する「犯人」は誰なのだろうか。
書紀の目的から考えれば、そもそもが、百済本記の「日本天皇一家の死」の記事を持ち出して来たこと自体が失敗の始まりだったのではあるまいか。
ご存じのように、書紀の原文は純粋漢文である。この条の原文は以下のようである。
或本云天皇廿八年歳次甲寅崩而此云廿五年歳次辛亥崩者取百済本記為文太歳辛亥三月軍進至于安羅営乞乇城是月高麗弑其王安又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨由此而言辛亥之歳當廿五年矣後勘校者知之也
このように、日本書紀全文が書かれている。訓点は一切無い。写本に訓点がつけられるのはもっと後世の事だ。中国人、もしくは中国語に堪能な者ならこれを読むことができるが、当時の教養ある天皇にも無理では有るまいか。それを示すように、書紀成立の翌年の養老5年(721年)には、この難解な日本書紀を理解すべく、宮中で講話(これを書紀講筵と言う)が始まっている。これは何度も宮中で行われており(721年・813年・839年・878年・904年・936年・965年開講)、いずれも数年に及ぶ最長で7年という長い講義であったという。この講義には必ず博士がいて、最初の講義は古事記の編纂者と言われる太安万侶があたったと言う。
このことから考えて、書紀の内容は当時の貴族にも理解しがたい状態であったことが判明する。講読に参加する貴族も任意であったろうから、成立当初から、書紀の内容を理解する者はまれであったと言えるのではあるまいか。そうでなければ、倭国の存在が明らかになってしまうような記事は許されなかったはずである。太安万侶のあと、なんと90年以上も講義がなされていないことに注目して頂きたい。成立後長らく内容を理解されないまま放置されていたのである。書紀の講義の最初の博士が太安万侶であったとすれば、執筆責任者も安麻呂であったに違いない。
書いた者も安万呂。説明するのも安万呂。この危険な内容を隠すことはそう難しいことではなかったのではあるまい。滅ぼされた倭国を表記すること、歴史的事実を記載することは歴史学者としての安麻呂にとっての悲願であったのではあるまいか。