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171 天皇空位が明らかにするものは何か

 日本書紀は本当に、面白い、ユーモアに溢れた書だと思う。書紀は書く、「ある本によれば継体天皇が亡くなったのは在位二十八年甲寅(きのえとら)(一月)のことであったという。そうであるのに、ここに二十五年辛亥(かのとのい)(十月)に亡くなったと云うのは、百済本記から引用して文を作ったのである。その百済本記の文に云うには、辛亥かのとのい年三月に軍進みて安羅あらに至って乞乇城こっとくのさしつくる。この月に、高麗こま(高句麗)その王、あんを殺す。また聞く、日本の天皇及び太子(次期王と定められた皇子)・皇子、ともにかむあがりましぬという。これによって言えば、辛亥かのとのいの年は、継体二十五年にあたる。のちに考える者、知るであろう」


 このように継体天皇が亡くなった年は良く解らないと、言っておいて、年記上では空位二年(実質は三年である。継体天皇は二十五年二月に亡くなって、二月より空位。また、安閑天皇は本当は二月即位であるからだ。前記の表を見て欲しい)をしっかり作っているのは、書紀執筆官に、継体天皇は、継体28年に亡くなったと言うことに深い確信があったからなのである。

 それでは、何故、空位を作ってまで、継体天皇25年死亡にこだわるのであろうか、それは、言うまでもないことだが、百済本記の、辛亥かのとのい年に日本天皇が死んだという記事に、継体天皇の在位をあわせるためなのだ。

 しかし、こうして書いた事情も、もう一つ深読みすれば、【書紀執筆官は、百済本記の記事と継体天皇の在位のずれをひどく強調したかった】と言うことである。

 ここに、書紀の面白さとユーモアが発生するのである。わざわざ、やがて埋もれてしまうような、百済本記(この書は三国史記中の百済本紀とは別な書である。この書は現在存在しない)を、引きずり出してきたのは、継体天皇が、百済本記のいう、日本天皇一家とは別の存在であることを強調する為にしかけた頭脳プレイであるとしか考えようがない。継体天皇が太子や皇子と共に亡くなったという記録はどこにもない。それを執筆官は、共に亡くなったという矛盾した記事を継体天皇に強引に結びつけてしまっている。そして最後に極めつけ【後に考えむ者知らむ】とは、大変な面白い舞台をみているようではあるまいか。・・・改変が度重なった書紀にこの条が今でも残っていることに驚くとともに、この笑劇を書くために死を賭した書紀執筆官の壮挙に深く感動したい。

 



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