169 年表
だいぶ、混沌としているので、編年的にまとめてみよう。
506年 武烈8年12月 武烈亡くなる 百済武寧王即位5年目
507年 継体元年 継体即位
512年 継体6年 任那4県を百済に譲る
513年 継体7年 任那の伴跛主導による百済への反抗、己汶・滯沙百済に併合。
514年 継体8年 伴跛は百済、日本と対立、新羅にも攻め込む。
515年 継体9年2月4日 物部至至連、滞在していた百済文貴将軍を送るため船師500を率いて、出発。同月 韓地、巨済島に至る。
同年4月 帯沙の港に船師500人が留まること6日、伴跛が襲ってきて、全てを略奪された。物部連らは逃れて汶慕羅の島に泊まる。
516年 継体10年5月 百済の使者は、已汶にいる物部連を訪ねて来た。百済の臣は連等を率導て百済に入る。労うこと篤く、双方、贈り物が豊かであった。九月 物部連、帰国。
523年 継体17年5月 百済武寧王亡くなる。
524年 継体18年正月 百済明王位に即く。
526年 継体20年 継体天皇、初めて大和に入り磐余(現・奈良県桜井市)に都す。
527年 継体21年6月3日 近江毛野臣兵六万を率いて、任那に行き、新羅に破られた南加羅・㖨己吞を再興し、任那に併合しようとした。筑紫の国の造、磐井は反逆の気持ちを抱いていたが、果たせず年を経ていた。新羅はこれを知り、密かに財貨を送って、毛野臣の軍を防ぎ止めよと、勧めた。
同年8月 物部の率いる大和軍発進する。
528年 継体22年11月 磐井亡くなる。
529年 継体23年百済、多沙の津を得る。三月、毛野臣が任那の安羅に往く。
530年 継体24年10月 毛野臣の施策失敗して、収監、対馬にてなくなる。
531年 継体25年(辛亥年) (磐井の死 百済軍任那の安羅に進軍 葛子、倭王となる。※筆者説)継体死 三月よりは天皇空位。
532年 天皇空位(恐らく継体天皇在位)金冠加羅国が新羅に投降(三国史記中の新羅本紀載)
533年 天皇空位(恐らく継体天皇在位、死去)
534年 安閑元年 (甲寅年)一月、安閑天皇即位。 屯倉急増 (恐らく継体在位二月まで。本来の継体28年)
535年 安閑2年 屯倉急増
536年 宣化元年 新羅の渡海を警戒し、筑紫に宮家を建てる。全国の屯倉から兵食を集める。
537年 宣化2年十月 新羅の任那侵略に対して、大伴金村大連の子、磐・狭手彦を任那に遣す。この時、磐は筑紫にとどまって、その政をとり、三韓に備えた。狭手彦は渡海し任那を鎮め、百済を助けた。
539年 宣化4年3月 宣化天皇亡くなる。
540年 欽明天皇即位する。