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168 磐井死後、大和国の屯倉が増大する

 屯倉みやけは大和王家の、地方役所と倉庫と直轄農地を兼ねた施設である。大和国においては450年ごろから、支配の形として出来上がってきたものだが、そもそもが大和国以前の磐井の王国である倭国において始まった事も考えられる。磐井の王子の葛子が死罪を免れたのは、大和国に対して糟屋かすやの屯倉(現・福岡県糟屋郡)を献上したからである。ここでの記事には、もともと倭国王朝の屯倉であったものを、大和国に譲ったようなニュアンスがある。屯倉は元々は、倭国の支配形態であったことも考えられる。


 磐井死亡までは、大和国は、さして多くの屯倉を持たなかった様子であるが、磐井の死、それは倭国の衰亡の始まりであるが、この時期をもって(継体25年・531年)大和国の屯倉は爆発的に増大したようである。しかし前記したように、この爆発的増大を目立たないように記して、大和国の歴史が浅いことがあからさまになるのを隠そうともしている。

 屯倉の増大のさまをちょっと、書紀の記事から拾ってみよう。


 安閑元年(534年)四月一日 臣に、天皇が命じられて真珠を伊甚いじみ(現・千葉県勝浦市)に求めさせた。伊甚国造いじみのくにのみやつこらは京に詣でる事が遅くて約束の日に間にあわなかった。臣はひどく怒って伊甚国造を捕らえて縛り、その事情を問いただした。国造は、驚いて皇后のいる、後宮に逃げ隠れた。皇后はそれに驚き、慌て倒れた。この国の造は名を稚子わくごと言うが、その争乱も重なって、罪は重いものであった。稚子わくごは、その許しのために伊甚の屯倉として献上した。


 安閑元年(534年)七月 天皇はおっしゃった。「皇后は、身分は天皇と同じだが、後宮におり、しかも世間では名を呼ぶのもはばかれるため、その名を知らぬものが多い。それで、皇后の名を冠して屯倉を建て、後代に名を残すべきである」と。それで天皇は良田を選び、それを持つ臣の一人、大河内直味張おうこうちのあたいあぢはりに「なんじ肥えた田を献上せよ」と命じた。

 味張あじはりは、たちまち惜しんで、天皇の使いに「この田はひでりの時に水を送りにくく、又、少しばかりの増水に水浸しになってしまいます。田の維持に労多くして収穫は大変少ないのです」と嘘をついた。使いは、その様ないいわけは聞かず、命を実行して、屯倉とした。


 安閑元年(534年)十月 天皇は大伴大連金村に言われた。「ちんは四人の妻をめとって、今に至るまで後継ぎができない。このままでは万世の後には、わが名は消えてしまうであろう。どうしたらよかろう」と。金村は言った。「それは私も憂えていることでもあります。良く考えて見ますと、名を残す、残さぬは必ず物によってであります。従いまして多くの屯倉をお建てになり、その名を留めるべきであります」天皇は「それを許す。すみやかに建てよ」と答えた。

 大伴大連金村は言った。「小張田おわりだ(飛鳥付近)の屯倉と、各所から集めた田部(農民)を紗手姫(妻の一人)に授けます。桜井(現・大阪府牧丘市池島)の屯倉と各所から集めた田部を香香有媛かかりひめに授けます。難波(現・大阪市高津)の屯倉と各所の鍬丁くわよぼろ(農耕民)を宅媛やかひめに授けます」と。「申すとおりにせよ」と。天皇は言った。


 安閑元年(534年)閏月うるうつき(陰暦は、月の回転を主とする暦だ。月は地球の周りを一年355日弱で12回転する。従って使い続けると一年で太陽に対して約11日暦がずれてしまう。このため三年に一度、更に微調整のため19年に一度、適当な月に余分の月、閏月を設けて調整する。ちなみに十二月・閏十二月と続く)十二月四日 天皇は三嶋(現・大阪府三島郡)に御幸される。大伴大連金村が伴われた。天皇は大伴大連を遣わして県主あがたぬし飯粒いいぼに良田があるかと尋ねさせた。県主飯粒あがたぬしいいぼは大変喜んで、誠実に対処した。それで、上御野かみのみの下御野したのみの(両地は現・大阪市西淀川区姫島町あたり)・上桑原かみのくわはら下桑原しものくわはら(両地は現・大阪府茨木市桑原)の地を献上した。大伴の大連は言った。

「天の下、王の封地ではない所はない。それであるのに、味張あじはりは、国の内の、とるにたらない臣下であるにすぎないが、本来王の地である耕地を献上するのを惜しんで使いの命に従わなかった。今後は郡司くにのみやつこの地位を奪うのである」と。

 屯倉を献上した飯粒いいぼは、安堵するとともに恐れをもいだき、その子、鳥樹とりきをもって大連に献上し童子の従者とした。このことに味張あじはりは悔しがり、地に伏して汗を流しながら大連に訴えた。「愚かな取るにたらない者である私は、その罪万死に値するものです。伏して願うことは、郡ごとに、農耕人足を春に500人、秋に500人をもって子孫に至るまで天皇に献上いたします」と。

このほかに、狭井田六町さいたむところ河内かわち某所であろうが不詳)を大伴大連に献上した。このことによって三嶋竹村屯倉みしまたけむらのみやけには河内県の部曲うちやっこ(豪族の私有民)をもって田部(耕作民)とすることになった。


同年閏十二月 廬城部連いおきべのむらじむすめ幡媛はたひめが宝玉で造った首飾りを物部大連尾興(おこし)(物部守屋の父)から盗んで、春日皇后かすがきさきに献上した。事が発覚するに至り、幡姫はたひめは、采女丁うねめのちょう(後宮につかえる下位の女官の召使い)として献上された。合わせて安芸国あきのくに(現・広島県西部)過戸あまるべ(現・広島県安佐郡安佐町か)廬城部屯倉いおきべのみやけを献上し、娘の罪をあがなった。物部大連尾興は、この事件が自分に関わっているのに恐縮して安らぎを得られなかった。それで十市部とちべ(現・桜井市)・伊勢の国、来狭狭くささ登伊とい両地の贄土師部にえのはじべ(食器製作のための工房)・筑紫の国の胆狭山部いさやまべ(現・大分県下毛郡)を屯倉として献上した。


 又、武蔵国造の笠原直使主かさはらのあたいおみ使主おみは名前である)と同族の小杵おきは、国造くにのみやつこの地位を争い長年決着がつかなかった。小杵おきは気性が荒々しく、高慢であって天皇の命にも、従わなかった。ひそかに助けを上毛野君小熊かみつけののきみおくまに求めた。これは使主おみを殺そうとしたのであり、使主おみは気付いて逃げ出した。使主おみは都に詣でてその状態を進言した。朝廷は罪を定めて、小杵おきを殺し、使主おみを国造とした。

 国造が正式となった使主おみは喜びが心に溢れ、だまっておられずに、国家のために横渟よこぬ(現・埼玉県比企郡吉見村、並びに東村山北部か)・橘花たちばな(現・神奈川県川崎市住吉、並びに横浜市日吉あたり)・多氷おおひ(現・東京都多摩郡か)・倉樔くらす(現・横浜市か)の四か所の屯倉を献上した。


 安閑二年(535年)五月九日 以下の屯倉を置く・


 筑紫の穂波屯倉ほなみのみやけ鎌屯倉かまのみやけ・豊国の腠崎屯倉みさきのみやけ桑原屯倉くわはらのみやけ肝等屯倉かとのみやけ大抜屯倉おおぬくのみやけ我鹿屯倉あかのみやけ、火の国の春日部屯倉かすかべのみやけ、播磨の国の越部屯倉こしべのみやけ牛鹿屯倉うしかのみやけ吉備後国きびのみちのしりのくに後城屯倉しつきみやけ多禰屯倉たねのみやけ来履屯倉くくつのみやけ葉稚屯倉はわかのみやけ河音屯倉かわとのみやけ婀娜国あなのくに胆植屯倉いにえのみやけ胆年部屯倉いとしべのみやけ阿波あわの国の春日部屯倉、紀の国の経湍屯倉ふせのみやけ河辺かわへの屯倉、丹波の国の蘇斯岐屯倉そしきのみやけ、近江の国の葦浦屯倉あしうらのみやけ、尾張の国の間敷屯倉ましきのみやけ入鹿屯倉いるかのみやけ上毛野国かみつけの緑屯倉みどりのみやけ、駿河の国の稚贄屯倉わかにえのみやけ


 

 欽明天皇期になると、書紀は、国内の記事を忘れ果ててしまう。延々と続く任那復興策の話しのあとにやっと次の記事を見いだすのである。


 欽明十六年秋七月四日 蘇我大臣稲目宿禰そがのおおみいなめのすくね(安閑二年に大臣となったと言う記事がある。後に半世紀に渡って政治を支配する馬子の父)・穂積磐弓臣ほづみのいわのおみ(物部氏の支族)等を遣わして吉備の五つのこおり白猪屯倉しらいのみやけを置かしむ。


 以上で、書紀の屯倉に関する記事は終了する。後は、無言である。この記事以降どうやら本格的な独裁専制王権の確立のために各地で戦闘が繰り広げられたように考えられる。それを具体的に書いてしまうと、大和国が成立したばかりの若い王国であることが明らかになってしまう。それは神代の時代から続いてきたと言う、自らの主張を突き崩してしまうだろう。それゆえ、書紀は記事を海外に移し、国内の記事を隠滅してしまったと考えられる。次の記事は、大和国と倭国が歩調を合わせて海外にあたる数少ない記事である。ここから考えるに、この時期倭国は、いまだ王国として存在していたようである。


 欽明十七年春正月 百済聖明王の王子、亡くなるという。よって、武具、良馬を賜うこと、はなはだ多かった。ここに、阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣わして筑紫国の舟師が守り送りて国に至らしむ。これに関わって筑紫火の君、百済本記に云わく、筑紫君の子、火中君の弟なり、が勇士一千を率いて南海島の津に至り、その要害の港を守らせた。(筆者註・ここで言う筑紫の君は磐井の息子、葛子の事ではあるまいか。従って火の君は磐井の孫にあたるかと考えられる。ここで言う百済本記は失われた古記で、現存する三国史記中の百済本紀とは別のものであるから、現存する、百済本紀には前記の記事は見えない)


 


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