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167 磐井の死・大和国に侵蝕される倭国

 なんだか、話しが方々に飛んでしまったが、磐井が亡くなったと思われる継体二十五年のあとの空位三年(実際は二年十ヶ月、空位二年間は継体25年(辛亥かのとのい年)の後の、壬子みずのえね年の532年・癸牛みずのとうし年の533年である。その次の534年、甲寅きのえとら年は安閑天皇元年である)安閑期二年・宣化期四年・欽明期三十二年、おおむね41年のあいだの書紀の記事中には、最初の数年だけに屯倉の設置が見られるだけで、のちは、この屯倉の設置も隠蔽されてしまう。


 書紀では、磐井の事を国造くにのみやつことして、継体二十一年の夏六月の記に以下の様に書いている。


 ここに、筑紫国のみやつこ、磐井、ひそかに叛逆そむく事をはかりて・・・


 ところが古事記では、継体天皇記に


 この御世に、筑紫君石井つくしのきみいわい、天皇の命に従わずして多くれいなかりき。故、物部の荒甲あらかいの大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまいき。


 と、ある。すぐ気がつくことは、書紀では磐井のことを国造くにのみやつこと書いているが、古事記では筑紫の君と書いている。このことからは古事記では国王的な存在である磐井を書紀は、意図的に臣下に落として書いていると思われる。

 磐井の国が独立的な王国であったことは、古事記における君の称号と、磐井のあとに急増した、九州内の大和王朝の「屯倉みやけ」が示している。

 当初の大和国の全国支配は、各王との主従の個別契約・年々の貢納・婚姻・人質などの人的関係、各王の離反を見張る意味を持つ寄進地である屯倉を諸国内に設置するなどの形をとっていたように考えられる。屯倉の貢納を司る官庁が、この時期やっと設けられたように書紀は記載しているから、諸国に置いた屯倉はまだ少なかったようである。それゆえ屯倉を設けたことを書くことによって、いまだ支配が及んでいなかった地域がはっきり解ってしまうし、大和国の建国が最近であることが解ってしまう。そのようなジレンマが屯倉設置の記事にはつきまとっているように見える。

 

 しかしながら書紀の安閑期には、この屯倉の拡大によって大和国が倭国を侵蝕していく様子が示されているのである。



 

 



 

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