164 欽明天皇、その複雑な事情
532年に金冠加羅が新羅に併合されてから30年後の562年に、任那全諸国が、新羅の手に落ちるわけだが、こうした悲劇が始まった532年はどんな年なのだろうか。
「日本の天皇及び太子・皇太子ともに崩りましぬという」この百済本記による書記の記事は辛亥年(531年)の出来事である。これを根拠に書紀は、継体天皇が亡くなった辛亥年にあたる継体25年を継体天皇の亡くなった年とするのだが、実際に亡くなったのは筆者が検討したように継体28年である。この時に亡くなったのは本当は磐井王の一族である。磐井の一族こそは倭国の王であるからだ。
従って、継体天皇はこの時は存命中で、在位26年目を迎えていた。継体天皇は倭国攻略の大和の軍兵の背後にいて、全国制覇の最後の仕上げのために、怠りなく目を光らせていたのである。重臣を倭国攻略に出したが、手薄になった大和国を狙う、何者かがいるかも知れない。それで継体は近畿をはなれるわけにはいかないのだ。やっと大和国周辺は安定したが、まだまだ大和国を陥し入れようとする勢力は後をたたない状況である。
九州を中心とする倭国は、長らく王の王として、全国の王国の上に君臨していた。大和国は出自が倭国であったから、倭国の親戚国として、篤く遇されており、全国の王からも第二の王として敬われていた。しかし、大和国が争乱で乱れ、血筋の違う男大迹王(継体天皇)が、この戦乱に勝ち抜き最終勝者となって、伝統ある大和王国の姫であるところの手白香皇女を皇后として、大和国を継いだ時から、倭国の運命は変わってしまった。男大迹王は、自分が大和国王の血筋と遠いか、又は継がっていないため、仁賢天皇の皇女を皇后にすることによって、大和国の血筋と結びつこうとしたのである。それは、あくまでも建前のもので、全国を制覇する手段にすぎないものであった。 男大迹王は、実際はこの血筋をあまり重要視しなかったように思える。というのは、この後の安閑・宣化両天皇の母は目子媛という尾張連草香の娘であるからだ。そこには大和国の血などは考慮されていないと思える。言うなれば男大迹の国と大和国家臣との妥協のために、この婚儀が設けられた気配があるのである。ようするに、大和国の血筋の姫を皇后にすれば、無難だという姿勢が見えないだろうか。
二代の天皇の後、やっと手白香皇女の太子ではない、皇子である(書紀にはこう書いている。つまり、継体天皇は世継ぎの第一順位に欽明天皇をおいていなかったことを示している。このことは前記の事を裏打ちしているように思える)欽明天皇がやっと立つのである。
つまり継体天皇には大和国や倭国の歴史的な血筋を尊重する姿勢がなかった。はるか後年の豊臣秀吉のように成り上がった継体天皇の価値観は武力で生き残る事のみが立身の根拠で古い王家の尊い血筋などは無視してよいものであったのだ。それゆえ、継体の目標は早くから、倭国を滅ぼし全国制覇を成し遂げることだったのである。
太子でなかった、欽明天皇の即位は庚申年・540年の事であった。