162 干支によって暴露される継体天皇在位の真実
三国史記・新羅本紀 法興王(在位514-540)19年(532)の条
金冠国王の金仇亥が、王妃および三王子、長男を奴宗といい、次男を武徳といい、末子を武力といった、とともに国の財物や宝物をもって新羅に降った。王は彼らを礼式を持って遇し、上等の位を授け、本国(元の金冠国の事)の貢納を、その所得として与えた。末子の武力は新羅王朝に仕えて角干まで累進した。
三国史記・新羅本紀 真興王(在位540-576)23年(562)7月の条
加耶(加羅)が反乱を起こした。新羅王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含を副将としてつけた。斯多含は五千騎を率いて先鋒隊となり、加耶の城の栴檀門に押し入り白旗を立てた。城中では恐れおののいて、為すすべをを知らなかった。(本隊の)異斯夫隊を率いてやって来ると(加耶軍は)一度に全て降伏してきた。新羅王は賞して、良い耕地および捕虜二百人を与えようとした。斯多含は三度辞退したが、王が強いて与えたので、その捕虜を受け取り、解放して領民とし、その耕地は戦友に分け与えた。国の人々は、この行為を賞賛した。
話がそれるがこのように年が確定できるのは主として干支による。干支(えと・かんし)は60年周期のいわば東洋の年号で、しっかり西暦とリンクしている。たとえば書紀に記載される継体天皇元年は太歳丁亥。太歳は60年周期の歴法の事であり、丁亥年は継体元年のころでは西暦447年・507年・567年・627年にあたる。こうして継体天皇即位の周辺の記事とつきあわせると継体元年は西暦507年とほぼ推測できるのだ。
書紀は干支の表記がなされているが、三国史記については原文にあたっても干支の表記はないので、平凡社の三国史記の訳本に併記する西暦年号は三国と中国との交流をたよりに干支が正確である漢の歴史書にたよって、著者が西暦を決定しているようだ。これも、かなり正しい検証なので、付加する西暦は信頼できると思う。
継体天皇の在位を28年間であるところを、25年と変更したためだろう、継体死後天皇不在三年間ができている。すでに書いたように継体天皇在位は、百済本記(筆者註・この書は三国史記中の百済本紀ではなく、その原書にあたる書と思われる。何故なら、三国史記中の百済本紀には干支は表記されていないし、辛亥年にあたる(531年)あたりに、このような記事も見あたらないからである)の「辛亥年(531)・日本天皇、太子、皇子ともになくなるという。辛亥の年は継体二十五年にあたる」を根拠に25年としたのであるが矛盾が発生してしまっている。なんと次の天皇の安閑が即位するのが、書紀の記載によれば甲寅年(534年)で、三年間の空位ができてしまっているのである。
「ある本」に言うとおり継体期を28年としてみると、この空位は解消する。継体天皇は、安閑天皇にスムースに繋がる事が判る。この点からも、継体在位は実際は28年間であって「倭国天皇」の存在を隠蔽するために25年間に縮められたとしか考えられない。