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161 欽明期記事の異常

 長い欽明期から日本国内関係の記事を抜き出すのは、その数が少ないからたやすい事だ。それを列挙してみよう。


 欽明元年二月 百済人己知部(こちふ)が帰化した。倭国やまとのくに添上郡そふのかみのこおり(現在の奈良県帯解本町・田中町あたり)の山村に置む。今の山村の己知部こちふの祖である。


 欽明元年三月 蝦夷えみし隼人はやと、ともに衆を率いて帰附きふ(帰属)した。


 欽明元年八月 秦人・漢人等となりの国の帰化した者を集め、国郡に置いて戸籍に編入した。秦人の戸の数は統べると七千五十三戸だ。


 欽明七年七月 倭国やまとのくに今来郡いまきのこおりが言うには、「五年の春に川原民直宮かわらのたみのあたいみや(宮は名前である)は楼に登ってあたりを見ていました。すると良い馬を見つけたのです。それは雌馬を見て高くいななきました。それはその馬の母をはるかにえた背丈があります。それで行ってそれを買い取り飼うこと何年にもなったのです。その馬は成長して大鳥のごとく竜のごとく疾駆する馬である。それではずいぶん彼の重用することになったそうです」


 以上の文章が、欽明期の国内の記事のすべてである!岩波文庫・日本書紀にして114ページが欽明天皇期の記事になっているが、上記、たった一ページに満たない四つの記事が国内記事の全てであることは

、国内記事の隠蔽としか言いようがないのではないだろうか。

 材を任那に取ることを装って、国内問題を封印する強い理由が確かに存在するように筆者には思えるのだ。

 これによって、後世の我々は、今に至るまで大和王権成立の具体的事情を知ることができないでいるのである。饒舌の裏にある沈黙には、大和王権の強烈な意志を感じるのである。しかし、その一方で、書紀執筆官の、ヒントのタイムカプセルも感じさせる欽明期の文章である。


 次ぎに、この謎を解明すべく、三国史記を開いてみようと思う。

 


 

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