160 欽明天皇期はブラックボックスだ
この当時(日本天皇・太子・皇子ともに亡くなるの時)、任那でおこっていた事はおおむね知ることができたと思う。けれども、海のこちら側で主役であったのは葛子の倭国であったのか、それとも継体の大和国であったのか主語が不明である。それを捜しあてる方法はないだろうか、書紀に現れた記事は日本国内については、特にフィクションそのものだろう。しかし、その中にも真実はころがっていると推測する。
金冠加羅国が新羅に併合されるにあたって、福岡に海防の為の施設を造り、多量の軍兵の糧食を調達したのは、大和国だろうか?倭国だろうか?
ここでも当然ながら日本書紀執筆官吏が謎をかけてくる。否、むしろ、ここにこそ、執筆官の命がけの大和朝廷に対する反逆の中心があるといえる。
欽明天皇期に入って、書紀は、日本があたかも韓地の国ではないかと錯覚するくらい、欽明天皇在位32年間全文、ごく一部を残して任那と三韓の記事で埋め尽くしているというのは、ひどく異常ではあるまいか。
欽明期の古文が失われてしまったのか、それとも国内の状況を書きたくなかったのか、事情は後の方にあると筆者は思う。筆者の推測によれば、この時代にこそ倭国と大和国の長い戦乱の時代があったと思えるが、その根拠はなにもない。しかし一度、日本書紀を手にとって、欽明天皇期を読んでいただければ解ることだが、539年に即位し571年に亡くなったというから在位は30年間以上に渡るわけなのだが、この間、日本国内の記事が数行に留まるのである。又、韓地の状況もじり貧の一途であり、韓地に大軍を出した様子は見られない。堂々巡りの天皇の「任那をたてよ」の言葉ばかりの印象がある。
安閑二年期に、三十カ所近い屯倉を初めて設置した記事から考えれば、この時代は、様々な反抗の中にも屯倉が一層拡充された時期であったはずだが、書紀はこの時代をブラックボックスにしてしまっている。この理由は何であろうか。
ここで、書記執筆官は、欽明期30年間をブラックボックスにすることによって、この時代こそ、倭国と大和国の争乱があったことを示そうとしているのだと考えられる。執筆官は朝廷むけに、ここで屯倉が大量に造られた事を示せば、これ以前に、各地が大和国に征服されていない事実が明らかになってしまうではないかとの理由をつけているのだろうと思われる。
裏の意図がある書紀執筆者には、国内状況を隠さなければならないという理由は利用できた。なぜなら全部を隠してしまうと云うことはあからさまにするのと同じだからである。
さて、欽明期の記事がどのようなものであるか、書記を検証してみよう。