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16 倭国と高句麗

 この西暦505年 磐井は30才になっていた。三年前に父王が亡くなり王となっていた。大和王国に内乱があるのを伝聞で知っていたが、どうせ配下の諸国の出来事である、磐井に心配なのは、大和国が今までのように相応の兵士と貢ぎ物を送ってくるかどうかという事であった。どうやらおおどの君という者が新王に就いたという事らしい。しかしながらまだ大和は分裂しているという。分裂した諸国が、それぞれに倭国に朝貢して来ている。それぞれの使いから大和王家の内情が伝えられている。おおどの君はまだ、大和に都を構えないで、辺地の堺あたりに都を構えているという。 父王が亡くなられるまで、磐井は韓国からくにの任那鎮守府の総大将であった。この鎮守府は小山の上にあり五万坪の敷地を有していた。小山を取り囲み堀を切り内側に柵を巡らしてある。東西南北に上げ橋が造られており、通常は南門のみが出入りに使用されている。ほぼ15年に渡り磐井はこの城の城主を勤め上げた。高句麗が好太王碑を建てたのが405年のことである。この五世紀の初め高句麗は北方の北魏の国力の衰退を機会として倭が新羅や百済を私物化するのを阻止するために兵を進出する。前記、好太王碑には倭に勝利したと書かれているが、史実にあたると勝利したわけでなく、一時的な阻止に成功しただけであるようだ。したがってその後50年ぐらいに渡って倭は韓国において比較的平穏な支配を続けられたのだ。474年にいたり、国力を蓄えた高句麗は南方の百済侵略を開始し、ついに百済の都、熊津を落とし、王を惨殺する。この時以来、倭国は韓地において苦汁をなめることとなる。

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