159 初めて明らかになる金冠加羅滅亡時の日本の状況
継体二十四年(530年)の暮れ、毛野が更迭されてから、倭国の任那における活動記事が空白である。収監のために任那に行った目頬子は《めづらこ》は、その後、書紀の記事にまったく現れない。
書紀の宣化元年(533年)五月(毛野が亡くなって三年半後)の条に「多量の米を博多の新造の宮家(軍事基地もかねた朝廷の分所)に運ばせた」という記事がある。書紀は、その理由を記さないが任那の基軸である金冠加羅が新羅に併合されたからである。
宣化二年(534年)十月の条には「新羅が任那を寇うというので天皇は大伴金村大連に命じて、その子の磐と狭手彦を遣わして任那を助けさせた。この時に磐は筑紫に留まって、その国の政事を執って三韓に備えた。狭手彦は任那に行って、任那を鎮め、加えて百済を救った」という記事が見える。
この、「新羅が任那を寇うというので」という文章は、金冠加羅国が墜ち、さらにまた、他の任那諸国も引き続いて落とされようとしている事態を暗示している。今や任那が滅亡するという大変な事態が起きているのに、日本側の動きはひどく緩慢であるように思える。
宣化元年(533年)に入って、日本に金冠加羅国が新羅に投降したという報が持たされたと考えて間違いがないと思う。それで、日本は、新羅の日本本土への侵攻という事態を想定して福岡に宮家を造り、各地から軍糧食のための米を多量に運ばせているのは良いのだが、実際の軍兵の手配は一年半後の宣化二年十月というのは、危機感がさほどではなかったことを表している。
狭手彦の率いる軍兵は本当に任那に渡ったのだろうか、任那を鎮め、百済を救うという割には、かの目頬子と同じで、韓地で行方不明である。つまり、書紀に一切の記述はない。これほどの勝利について、書紀が記述を忘れるという事はなかろうから、これはなかった事と考えても良さそうである。
ある本に云く天皇二十八年甲寅(換算表によれば534年)に崩りましぬという。しかるをここに二十五年辛亥(換算表によれば531年)に崩りましぬというのは百済本記を取って文を作ったからである。その本記に云わく辛亥三月百済軍は進んで安羅に至りて乞乇城を営る。この月に高麗(高句麗)はその王、安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子ともに崩薨り(亡くなる)ませぬというのを。これによって云えば辛亥の年は継体二十五年にあたる。後勘校者知之也(後に勘校えむ者、これを知るなり)。 継体二十五年十二月の条
この、書紀の文と、年次を考え合わせてみよう。継体天皇が亡くなったのが実際は継体即位二十八年(534年)だったとすると、磐井が亡くなったのは二十五年(531年)で、金冠加羅国の新羅併合は532年に起こったことで、これによって、前記の文に書かれる様に百済が今や新羅と任那の国境になった安羅に兵を進め城を営んだ(守った)のではないだろうか。継体天皇がその晩年に金冠加羅国の崩壊を知り、その驚きと対策に悩むうちに体調を崩し、亡くなった(534年)状況がほのかに見えてくるようでもある。また、金冠加羅国の新羅投降は、任那を支えた倭国の大和国に対する敗退を知った、金冠加羅国の絶望から起こった事ではないかとも考えられる。
しかし、こう筆者は推理を進めているが、書紀が継体天皇の在位を25年としたことによって、ここらあたりの時系列はかなり混迷して、確実にはわからないと白状したい。