158 新羅の躍進
振り返ってみれば百済に対する任那四県の譲渡は継体六年の事であり、もう二十年も経っている。安閑期にいたる流れを書けば以下のようである。
倭国国内の窮乏を救うためには、利益にならない任那経営から手を引かねばならない。その妥協策として具現したのが四県譲渡ではないだろうか。それは任那にしてみれば、信頼する倭国に裏切られ、百済に売り渡されてしまうという事態が起きた事に他ならない。残る任那諸国は明日は我が身と思ったに違いない。ではどうするか、独立を保つためには倭国はもはや頼りにならない、しかし任那だけの軍力では百済に対抗できない、そこで次善の策として任那諸国は婚姻などによって新羅に接近する。けれども新羅は新興国であり、やがて武士道にも似た花郎という、鮮烈な貴族青年の育成文化を作り出すエネルギッシュな国であるから、領土拡張にも強い意欲をもっていた。この思惑はかえって利用されて新羅に侵略される結果となった。
ここで、新羅の花郎について書きたい。三国史記によれば新羅の真興王37年(576年)有能な臣下の若者を集めるために南毛と峻貞という二人の美しい巫女が主宰する集まりを作った。そこには三百人という若者が集まったが、この二人の巫女は人気を争って、争乱を起こし、峻貞が軟毛を殺害したが、峻貞も罰せられ殺害された。この二人に代わり姿の良い男子を、化粧美装させ代表となした。この者を花郎と呼び集まる青年達を花郎徒と呼んだ。これは貴人の子弟の親交と教育を兼ねたクラブのようなものであり、互いに論議し、歌楽に親しみ、山野の美を愛で、優れた特性の者は選ばれて新羅朝廷に登る事ができた。この制度は、優れた士官や兵を新羅に与えた。また庶民にも、徳性の高い、これら貴人の青年への尊敬は深かったようである。この制度によって新羅は相続によらない、才能による登用を可能にし、やがて全韓に渡る国家、統一新羅が実現するのである。
このような制度成立からも、新羅は黄金期の前期にさしかかっており、その覇気は洋々たるものがあったと推測できるのではなかろうか。
それに反して、任那は守り一辺倒で、王の相続や臣の昇進も旧態依然なものがあったと思われる。そして、任那を救おうといういう倭国も、倭国から出兵もせず、現地臣下に任せっぱなしの状況のようであったから、所詮、新羅の相手ではなかっただろう。毛野の苦悩と怠惰の源泉はここら辺にあるのである。
この任那放置は何年ぐらい続くのであろうか?以下に書紀からそれを解読してみよう。