157 磐井死後の内地・外地の状態
しかしながら、書紀には、磐井殺害後の事は、筑紫君葛子が父の罪によって誅せられる事を恐れて糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡)を献上し、死罪をまぬがれたという記事があるのみである。磐井と大和国の戦いの後、磐井の支配する筑紫の国がどうなったのかは一切書かれていないのだ。また大和国内において、戦後策がどのように話しあわれたかも一切不明である。
この後の文章は以下のように続く。一、百済の願いによって、さらに多沙の港が割譲される。二、加羅(任那)はこれを不満として新羅と接近し、新羅王女と婚姻するが、新羅の加羅侵略は、それによっては止まらなかった。 三、近江毛野が、加羅の代表国安羅につかわされるが、毛野は新羅・百済・加羅の紛争をを止めることができず、かえって新羅兵千の出兵を恐れて逃げた。四、毛野は何も功績を挙げることができないのに、今や加羅の王のように振る舞っている。五、加羅の王は、毛野の帰国や退職をすすめるが、聞こうとしない。加羅王は百済・新羅に毛野を討つように使者を出す。毛野は城にこもって百済・新羅の軍に包囲されながらも対抗する。六、毛野による加羅のひどい状況は大和国の知るところになり大和国から目頬子が毛野を収監するために遣わされた。七、目頬子に連れられて、対馬に戻った毛野は、病にあって死ぬ(継体24年11月)。八、翌2月継体天皇崩。安閑天皇即位。
安閑天皇期の記事には、主として各地に屯倉が置かれた事が書かれている。安閑元年十二月の記事に物部大連尾興(物部麁鹿火の遠縁)が宝石の首飾りを盗まれたと言うことで十市部(現在、桜井市周辺)・伊勢の国来狭狭(現在、大阪府豊能郡能制町)・登伊(不詳)、筑紫の国の胆狭山部(和名抄【平安中期930年代に作成された辞書】によれば現在、大分県下毛郡、又は福岡県京都郡)を献上している。些細な理由で物部一族の土地が実質的取り上げられた事が示されている。磐井に勝ったという物部氏に対してひどい仕打ちではないだろうか。(余談・ここで大分県下毛郡という地名が明らかにされるが、もしかすると毛野は、この地域の豪族ではなかったか?毛野の死のすぐ後の記事だけにそう思われる)
またこの話は、継体六年頃からの物部麁鹿火を代表とする物部氏の力が衰えてきたことを暗示しているようにおもわれる。
安閑期には、このほかにも屯倉の献上記事が多いが、筆者に関わりがある地域である武蔵野国橘花(川崎市住吉町・横浜市日吉町)が国造の身分争いに勝利した武蔵野国笠原使主(使主は名であると書紀註あり)造によって献上された記事に出会うことはちょっとした感動である。(ここでは地方主である国の造が、大和国の官吏ではなく、王のような血族継承の身分であったことが解る)
この記事の後に、前記した安閑二年の四月の、筑紫を筆頭とした三十カ所に近い屯倉の新設と、屯倉からの貢納を管理する役所が設けられた事が書かれている。
この記事が真実であるならば、磐井の死後(つまり倭国王の殺害後)大和国は、屯倉を九州を初めとして各地に急増させたと考えることができる。
国内的には、このような状況であったが、韓地は、毛野のようないい加減な臣に任せっぱなしで、毛野更迭の後も、主立った対策は立てられなかったように見えるのだ。こうした韓地に対する無為はいつまで続いたのであろうか?収監使目頬子はどうしたのだろうか?