156 530年頃の倭国の状況
大和国にとっては磐井の死は倭国に対しての勝利であったが、それは完全な勝利にはほど遠いものであった。日本列島自体が多数の小さな王国の連合体であったから、全国制覇とはちょうど千の石を使ったオセロゲームといったもので、多くの石の黒(非占領)を白(占領)に裏返すような作業である。そして、それだけでは済まない。それが常に揺れ動いていて白にしたつもりが、いつの間にか黒に戻ったり、黒であったものが白となっていたりするから、油断がならない。それであるから独立しようとする集団(国)を常に武力で牽制して、全体をなるべく白(占領)に保つ事が全国制覇の実態であった。
こうした状況は、後年の鎌倉政権が起こる全国の様子に似ている。平家に支配された朝廷によって伊豆に流されていた、兵を持たない源頼朝がたちまちのうちに十万という兵を持つようになれたのは、雲霞のような数の、地方武装農園所有者達のオセロゲーム的な平家からの一群一群の参入が原因であった。頼朝は最初に、流されていた伊豆半島の小領主であった北条時政の支持を得た。それに伊豆の諸豪も加わって
地域の平家の代官を討った。ほどなく、平家方の軍勢によって伊豆に近い真鶴半島あたりの石橋山で壊滅的な敗北を被り、少数の兵とともに房総半島に魚船で逃れたが、この先の展望はなかった。 しかしながら、この地で強力な安房氏・千葉氏の援助が得られたことで、頼朝の運命は定まった。後は雪だるまを転がすように、参入する地方領主がみるみる数を増したのである。
ふりかえって、六世紀の日本列島もこのような諸国乱立の状況であったと思われる。磐井王属が討ち取られたとしても、元々弱い統合で分立状態である倭国が、その一打ちで瓦解、占領はされなかったと考えられるのである。