155 磐井亡き後の倭国について
この条には、【阿蘇の君】が、新羅の脅威に備えて、主流の働きをした事が書かれている。この文からその他の重職の連は、補佐的な役割であったことが推測される。
海防に備えて、博多の海岸に軍事基地が新設されて、阿蘇の君が、その軍事基地に糧食や軍備を多量に運び込んだ有様が見えるようだ。【阿蘇の君】は、恐らく、磐井となんらかの連がりのある肥の国(語源は【火の国】であり。阿蘇火山のある地域を指す)の王であろうとおもわれる。ここで、海防の担当者を【君】と呼ぶのは、それなりの根拠があることなのではないだろうか。
筆者の作品である「怒濤のうた・鎌倉幕府第三代将軍源実朝の青春」(小説を読もうサイトで読めます!一読下されば幸いです!)には、平安王朝から鎌倉幕府が権力を剥奪した有様を描いたが、その資料である、鎌倉幕府の手になる歴史書「吾妻鏡」には、その経緯が隠さず描かれている。なぜならば鎌倉幕府は、万世一系を唱う必要がないから、自分たちの時代の前に天皇家が存在したこと、敵対者である後鳥羽上皇の有様を、あたかも小説の主人公であるかのようにくっきりと描きだしている。そしてその「吾妻鏡」によれば鎌倉幕府が権力を握るためには天皇家との最終的な天下分け目の戦いであった「承久の乱」のあとにも相当の年月を要したことが判読できる。
平家は強権によって急速に寺社や貴族や豪族の荘園と呼ぶ領地を奪ったから、平家はたちまち人心の離反にさらされて、源氏待望の気持ちを呼び起こした。鎌倉政権は、その反省に立って、真綿で締め付けるような政権浸透策をとることによって権力奪取に成功したのである。
筆者は、このような事が、倭国と大和国との間にもあったと考えている。まして、磐井討伐は承久の乱のように天下分け目の堂々たる戦いでなくクーデターのようなものであるから、地方残存勢力は、平家の勝利時と同じ状況であったと考察できよう。もし、大和国が強権を発動すれば、かえって大和国が崩壊する危険があったということである。
それゆえ、大和国の倭国支配は過渡的で限定的であったと思われる。