153 屯倉の提示が示すもの
書紀の目的からいえば、磐井を殺害した後、すぐに屯倉(国家制度としての朝廷の所有農地)が、多数できると言うことは、深く考えれば、そこが、朝廷の支配の及ばない地域であったことを示している。書紀は磐井を初めて書紀に登場させるときに筑紫の国造として書いている。国造は同時代の県主が大和国に従属性の強い呼称であるのにくらべ、独立性の高い呼称のようである。地方の豪族が、たとえ大和国の配下となっていなくても、大和国は国造と呼んだようである。
したがって、書紀が文中で国造と呼んでいるからと言って、それは磐井が大和朝廷の官吏であったと言うことではないのだ。
しかし、磐井が独立した豪族であったとしても、磐井一族の滅亡によって、多くの屯倉を作れたり、盛大な祝いをした事を示すならば、磐井の王家が強大なものであった証拠を残すことになってしまうから、
強大な大和国という建前が崩れてしまう。そこで書紀は磐井の一族の滅亡を簡単に記すだけで済ますのである。これはある意味で、磐井の国が実に強大な国であった事の証拠とも言える。それはそうである、磐井の国こそは中国史書にしばしば登場する「倭国」そのものであるからだ。
したがって、戦から四年もたった時に、多くの屯倉を設けたという形で、それが真実であるか、どうかは定かではないが、戦勝の証として、書紀はそっとそれを提示するのだ。
実際はどの程度、倭国は大和国に敗退させられたのだろうか。それはやはり書紀文中に密かに隠されているのではないだろうか。それは又のちの考察したいと思っている。
別の事であるが、書紀中には記されていないが、任那の華とも言える金冠加羅国が安閑天皇期に新羅によって併合されてしまった事実がある。毛野の渡海と苦労はその状況にあったのだ。この事は又、倭国・大和国にひどい衝撃波を与えたようである。新羅が海を越えて襲ってくるという危機感を書紀は書いている。