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152 毛野はどのような男であったか。

 なにしろ、磐井が殺されるあたりが、書紀創作の目的遂行のための最重要部分であると思われるから、その継体25年の条あたりは、創作中の創作であり、真実はいくらも記されていないと見て良いと思う。 書紀中に毛野臣をわざわざ【近江】の毛野臣として登場させたあと、磐井の言葉として「かってはちん(私)と韓地の戦場を駆けずりまわって、陣で寝食をともにした者であるのに、今は大和国の使者としてやって来た、なんでお前みたいな卑しい者が(かっては倭国の家来であったものが)王である朕をして、命令に従わせようするのか」というように取れる事を言わさせている。

 書記では継体22年に磐井がなくなった後、毛野は大和国の将軍として任那諸国の一である安羅に渡海しているが、事実は磐井もしくは葛子王の任命を受けて、衰亡しつつある任那立て直しのために渡海したのではないだろうか。

 前記した事だが、書紀の磐井追討のあたりに、勝利の喜びや、その他書かれるべき諸々戦勝の喜びに類した記事が、「糟屋屯倉かすやのみやけを献上した」一文のみであるのは非常に不自然である。こうしたことを思索の土台として「磐井以降も倭国は存続した」と筆者は論を進めているのである。

 

 韓地で倭国代表として動く毛野は、動かしがたい歴史的事実であるようだから、書紀は毛野を大和国の将軍として描かざるをえなかったというのが実情でないだろうか。磐井死後も長らく韓地のことは倭国独占であり、主たる水軍を持たない大和国は門外漢であったと判断できよう。

 

 書紀はとってつけたように、継体天皇の後の安閑あんかん天皇二年五月九日の条に多数の屯倉を設置した事を記すのである。これは磐井との戦乱があって、およそ四年あとのことである。以下はその記事である。


 筑紫の穂波屯倉はなみのみやけかまの屯倉・豊国の腠先みさきの屯倉・桑原くわばらの屯倉・肝等かとの屯倉・大抜おおぬくの屯倉・我鹿あかの屯倉・火の国の春日部屯倉・播磨の国の越部こしべの屯倉・(中略、以下九州以外の各地の屯倉が最北、駿河に至る十七箇所列挙される)を、置く。九月、桜井田部さくらいたべの連・県犬養あがたのいぬかいの連・難波吉士なにわのきしらに命じて屯倉の収入を管理させた。


 各地に新設される屯倉の筆頭に九州の各地の屯倉が列挙されるのは、思わせぶりではあるまいか。またそれと併記して屯倉の収支の司を設けた事を書くことになんらかの背景があると思える。


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